昨日の記事を書いてから、すごーくすっきりしました!
※昨日の記事↓
やっぱり、嘘のない気持ちを表すことってとても大切です。
伝わるかどうか、共感してもらえるかどうかを気にしすぎず、これからも自分が思う素直な気持ちを書いていきたいと思います。気づかせていただき、有難うございます!
・気持ちを注ぐこと以上にこれから大切なこと。
それで今日の記事なのですが、ここのところ、珍しく旦那さんの風邪が長引いています。会社の仕事、フリーの仕事、執筆の仕事…と、本当に仕事し過ぎな人なので、体調の悪い日が続くとやはり心配にはなります。
でもそんな今日、こんなことばが自分の中から湧いてきました。
「気持ちを注ぐこと以上に、これから大切なのは気持ちを抜いていくこと。」
と。
誰かや何かを想って、それに対して気持ちを注ぐこと、気持ちを配ることを、わたしたちは当たり前に良きことと捉えてきてたと思います。
実際それは間違いではなくてとてもステキなことなのですが、気持ちを注ぐことが行き過ぎてしまうと、それは
「心配」「期待」「不安」「執着」
みたいなものに変わって、それを持つ当人がその感情に支配されてしまったり、持たれる相手にも重荷になってしまうことがあります。これが行き過ぎないようにコントロールすることがなかなか難しいので困ったもんですが。
そして時に(というか結構な確率で)、その感情が「問題」とか「敵」とか「悪い人(間違っている人)」という存在を作ってしまうことがあるんです。そう、そういう人がいるんじゃなくて、作ってるんです!
で、そうするとどうなるかというと、信頼が崩れたり、対立が生まれたり、そこからまた疑う心や怖い(自分を守りたい)の心が深まって憎しみになってしまったり。これがあんまりよろしくないし、疲弊します。(サンタサンタはムダに疲れることが嫌いです)
そしてこうなると、問題でもなんでもなかったことが問題になって、敵でもなんでもなかった人が敵になって、それがどんどん大きくなってきます。
・身近なところから大きなところまでに、当たり前に起きていること。
実際、世の中の困った!(問題だ!)って言われていることのほとんどが、本当にそれ自体が困った!なのではなくて、これらの感情が困った!(問題だ!!)を生み出して大きくしていることばかりなんですよね。
そうしてそれは、世の中っていう大きな単位に限らず、妻と夫、親と子、賃金を支払うものと支払われるもの、友人関係、悩みを聞く友人と悩みを話す当人、カウンセラーとクライアント…など、もうあらゆる関係の中で同じように、小さい話から大きい話まで、日常で起きまくっています。愛なのに、勿体無い!!っていう出来事が。。。
たとえば子どもを想って気持ちを注いでいろいろなことに干渉する親がいたら、それは愛だったのに、子どもは「お母さんのせいで自由がなかった!」って結構恨んで大人になったりする。
わたしが旦那さんを想って「仕事し過ぎなんじゃないの?ちゃんと考えてるの!?」なんていつも心配していようものなら、旦那さんもわたしに申し訳なくてやりたいようにできないわけですね(笑)
そうすると今度は、言い訳や逃げ口を生み出していく人が量産されていくんです。
「あの人にこうされたから、ああなった。」
こうして自分の人生に責任を持たない心(人間)が生み出されていくことになります。
・気持ちを抜くことの大切さ。
昔はいくら気持ちがあったって、お金や物質的な不足が大きかったから、気持ちを注ぎきれないことがたくさんあったかと思います。
「一人一人が、自分が生きぬくことだけで必死だった」。
それは悪いことに思えるかもですが、それだけ自分の人生に真剣にならざるを得ない状況であったと捉えると、命という部分ではけっして悪いことではないんですよね。そのぶん、背中を見せていたのだと思います。
でも今はわりと、自分以外の他者に気持ちを注ぐ余裕があるじゃないですか。
自分の大事な人どころか、芸能人の誰が不倫をしたとかっていう、正直自分の人生とはほぼ全く関係のない人のあれこれまで、情報がいくらでも入ってくるし、気持ちを注げる余裕があるわけなのですよね。(怒っている、嫌な気持ちになるというのも、「気持ちを注いでいる」という点では一緒です!)
それはとても世の中が発展して与えられた有難い恩恵であるわけなのですが、そういう時代だからこそ、気持ちを注ぐこと以上にこれからは、
「気持ちを抜く」
ことを意識して生きないと、簡単に喰われるといいますか、いろんな感情に飲まれて一生があっという間に終わってしまいます。もちろんそれも当人の人生なので良い悪いはないのですが、感受性の豊かな方ほどそこに陥りがちで、それは才能なのに勿体無いなあ、と思ったりするのです。
・自分以外の人間は、たとえ子であってもパートナーであっても他人。その他人同士が一緒に生きれる意味。
で、話が戻りますと、どんなに大事な人であっても、所詮は他人です。
というと、めっちゃ冷たい感じがしますが、実際そうなんですよね。
わたしは旦那さん本当に大好きですが、旦那さんは旦那さんの人生で、本人の考えで命を何かに燃やそうと真剣に生きている。
で、わたしと旦那さんが少なくとも今一緒にいられているのは(いることを状況として許されているということは)お互いに干渉(干渉って究極は邪魔、ということになるんですが><)しあえとか、まして相手の人生に何かしてあげろという意味ではなく、
お互いの人格に刺激を与え合って、それを自分の命を輝かすことに活かせ、つまり
「相手の命(存在)を、自分の命を輝かすことに真剣に利用しろ」
という命(めい)なんです。
利用するっていうと言葉が悪く聞こえるかもですが、「活用させていただく」という感じでしょうか。
親と子もおんなじです。というか、そうでしかない。
それを、「自分が何かを相手のために(やってあげる・思ってあげる)存在している」と勘違いすると、おかしなことになってしまうんですよね。その優しさは素晴らしいのですが、実際は逆なのです。
わたしたち個人からは「可哀想」「大変そう」「心配だ」としか思えないことであっても、宇宙の采配みたいなもので「その人のために」起きていることもあるんですね。むしろ一見悪く見えることのほとんどがそれであることばかりです。その体験を、その人の命をより輝かすために、その人のために、味わう必要があって起きていること。
だからわたしでいえば旦那さんを、旦那さんの命(存在)を活用させていただくことしか考えていないです。それはそれが、一番の旦那さん孝行になることを知っているから。
だから旦那さんにも、わたしを愛しているならわたしに何かしようとする前に、自分と全く違うわたしを大いに利用してくれ!!自分をクリエイトする何かの縁にしてくれ!!気付きの足しにしてくれ!!(それを本人が望むなら)と本気で思っていますし、旦那さんはそれをしっかりわかっている気がします。
そして今は、「本当にものすごい愛す」ということは、気持ちを注ぐことよりももしかしたら、「気持ちを抜く」ということなのかもしれない、と思っています。
ただ隣にいて、ただ真剣に生きてる旦那さんを見守って、ただわたしはわたしを真剣に生きて。。。気持ちを抜くって言うのは、放つというか。。。
うん、上手く言えないのですが、もっともっと旦那さんに「気持ちを抜く」ことで、わたしはもっと旦那さんを「本当にものすごい愛す」ことができるのだろうな、と思います。
・まとめ
大切な人のために気持ちを注ぐことのできるってすごく素晴らしくって愛がある^^そういうわたしたちがこれから少しでも、「気持ちを抜く」ことにも心を留められたら、たぶんパートナーシップも家庭も社会も、また大きく変わってくるような気がします。もし何か「あ!」と思い当たることがある方がいれば、よかったらぜひ意識してみてください^^意図するだけで、全然違うので!
それでは今日もお読みいただき感謝を込めて。
ステキなお休みをお過ごしください^^