先週の木曜日、妊娠検査薬を試したところうっすらと陽性で、
週が明けて今朝、再び試したところ、今度はくっきりとした陽性を確認し、
今朝、産婦人科に行ってきました。
今日の時点では、「たぶんこれがそうじゃないかなあ」とお医者さんもまだハッキリと言い切れないほどのこつぶっこちゃんが確認できたのみです。
診察室に呼ばれる前、内診に入る直前はめちゃくちゃ緊張し、思わず涙目になるくらい、
そしてわたしがかねてから時々起こる右下腹部痛が今も時々あることを伝えたことで、
「子宮外妊娠の可能性も無いわけではない」ということを先生から伝えられたときは、
やっぱりものすごく心配で、気持ちがモヤモヤしたのですが
(そして今もその気持ちがゼロなわけではないのですが。)
いつもより早起きして病院に出かけたので、帰ってきて昼寝に爆睡し、
目が覚めて改めて写真を眺めて感じたこと。
それはすごく、心配とか、愛情とか、そういうものではなく、
なんというか、
「すでに別個の命なんだな」と。
「わたしの赤ちゃん」ではなく、
すでに別個の立派な命。
このままちゃんと育ってくれるのか?
そもそもこのこつぶっこがちゃんと赤ちゃんで、子宮外妊娠してないのか?
わたしたち大人が、そんな心配でオロオロしてるのをよそに、
堂々とマイペースに淡々と、
自分という命をこいつは育てているのだなあと。
この小粒が”それ”かはわからないけれど、妊娠検査薬が反応してるのだから、”どっか”にいることは確か。
そしてもし、
このまま順調に育ってくれなかったり、
実は子宮外にいて、人としてのかたちで出逢うことが出来なかったとしても。
それは想像すると、とても怖いことだし、悲しいけれど、
それを悲しいことだと、可哀想なことだと反応するのは、
やっぱり人間独自の感覚なんだろうな、と思うのです。
昨日ちょうど、旦那・ジョーさんの新しいお仕事を紹介させてもらいましたが
ここで学んでいた時、代表のS氏の言葉で、
ずっと何か、頭に残っていることがあって。
わたしの頭にずっと残っている言葉は、こんな感じのことだった。
↓
「子どもが水子として生まれてくる前に亡くなる。それを悲しいことだと人間は捉えるけれど、
大きな宇宙の目線から見たら、
100歳生きた人の命の期間も、
生まれてこずにお腹の中で亡くなった子どもの命も、
生まれて、そして死んでいったという、
その期間に大差は無い。
それを人間が勝手に、人間の基準で可哀想とか、悲しいとか、
”生きられなかった””生まれてくることができなかった”
と決めているだけ。
生きたし、生まれてきていますよ。
変わらないよ。」
みたいな。
このS氏はいつも何言ってるんだか全然わからないんだけど、 失礼か。
たぶん、この人のすごいところというのは、
この世界をこの世界の理(ことわり)から見ていない。
人間目線でこの世界を見ていなくて、いつも、
「答えが先」というところ。
答えというのは真理ということだと思うのだけれど。
で、言ってること意味わかんないなりに、でも、その言葉を受けていると、
常識や自分の世界から当たり前にモノを見て凝り固まった脳がクラッシャーされるんです。
わたしが今の人生に至れたことのひとつには、
「当たり前や自分の考え方・ものの見方そのものを疑うこと」、
そして
「自分には世界とはこう映るけれど、それとはまったく違う別の世界があるのじゃないか?と受け入れること」、
この姿勢が大きかったと思うのだけれど。
それはたとえば、このブログを始めた頃、
自営のパートナーがいるから会社員を自分は続けよう!ではなくて、
オンナが無理を手放してしまうほうが男が育つのではないか?(そんな世界があるのではないか?)と感じてニートになってみたり、
田舎に引っ込んだら都会よりも刺激や面白みが無くなって退屈になる(に決まってる)という世間的な”常識”みたいなものがあっても、
「田舎に引っ込んでも大きな夢を見てワクワクしたり、
面白い人がいる世界もあるんじゃないか??」って感じて田舎に引っ込んでみて、
今、田舎でのんびり・安心という財産を味わいながら、
実際に都会にいたときよりも、
ジョーさんの仕事を通じて、大きな夢や未来にいつもワクワクして、
退屈と感じることがない世界、
そして出逢う人出逢う人、面白い若い人ばかりという世界を楽しませてもらっているし、
でもそうやって、
「自分の思う当たり前の世界(世間の常識が言う当たり前の世界)の”外”があるんじゃないか?」って柔軟に脳の枠を外すことができるようになったのは、
このS氏という不思議なオジサンのおかげだと思うのです。
このS氏の、一見奇想天外な言葉を浴び続けたことで
すごく自分の脳の枠を何度も何度も壊してもらったのだと思うのです。
そんな言葉は他にもたくさんあったけど、
その中でも強烈にずっと覚えているのが上記の言葉で。
今、自分の中にどうやらなんらかのかたちで命が育っているという現実を目の当たりにしてみて、
すごくその【言葉】の【言わんとする感覚】が落ちるんです。
頭で「そうだよね」って言い聞かす感じじゃなくって、
ああ、本当にそうだ、っていう感覚。
こちらがどんなに無事に生まれてきてほしいと願っても、
心配しても、できるなら肉体として会いたいと望んでも、
そんな人間的な感情をよそに、人間的な時間の基準をよそに、
すでに生まれて、すでにこの命を生きている。
そうしてそこからいつこの世を去っていくのか、
それもわからないけれど、
肉体をもって生まれてくるいのち=しあわせ・良かった
肉体を持たずに生まれてこないいのち=不幸せ、かわいそう、良くないこと
…そんな風に捉えているのは、こっち側の勝手なんだな〜ということ。
よく、赤ちゃんが可愛いのは、
生まれてきてまだ何もできない自分を守ってもらうために、「可愛い」「守ってあげたい」という気持ちをわたしたち大人に発動させるために、
そんな姿かたちで生まれてくる、と聞いたことがあるのだけれど。
なんか、それもすごく納得!というか。
可愛い、とか、守りたい、とかは、「本能」というけれど、
しかし生物としてすごく二次的な感覚なんじゃないかな、というか。
「本能」の前の「感覚」があるんではないかと。
そしてそういういわゆる”母性”みたい愛情も、すごく、
人間的な素晴らしい感情の財産なんですよね。
わたしもこれから、もしこの子が順調に人として育っていったら、
だんだんとそういう気持ちになっていくだろうし、
逆にそうならなかったとき、
真理がなんだろーが関係なく、
すごく悲しくていっぱい泣いたり、いっぱい何にしても後悔したりするだろうし。
そういう、愛情ゆえの感情も、
すごく人間的で、豊かな生きてる喜びで。
だからそういったいわゆる母性みたいな感覚が自分の中から芽生えてくる未来もとても楽しみだし、
そのときはひたすら、その感情に身を溺れさせたいと思っているし、それが豊かさだと思うのだけれど、
(良いときも悪いときも!)
でも、その前の段階として、
「こういう感覚」も一瞬でも感じ取れたというか、味わえたことがなんというか、
すごく良かったな、という気持ちです。
今は守ってあげたい!というよりも、
もちろん人間心としてすごく、なんとしても無事に育ってほしい、生まれてきてほしいのだけど、
今はなんというかそういう弱い守るべき存在というよりも。。。
the リスペクト!!!
この人(人?)、すごいな。
恐るべし。
って感じです。^^;
そうして、もうこうやって、すでにこの命にたくさんのことを教わり、学ばせてもらっていますね。
そのことに感謝だなあ。
今週末は東京での対面レッスンを経て、
来週また産院に行ってきます。
やっぱり、ちゃんとこのまま育ってほしい!と、すごく不安も心配も、ドキドキもしてしまいますが。
それでも、こちらの気なんて知りもしない、マイペースな大物くん。
みなさんも、わたしも、そうして生まれてきたんですよね。
どうかすくすくとこのまま育っていってくれますように◎