JUST WOMEN

「ただ、ありのままのわたし」を生きて、人生が180度変わった軌跡と奇跡を綴ります☆(旧ブログ名:ただのオンナに戻ります)

立ち止まり続ける勇気とその恩恵。〜自分を生きる19日目。

今年に入ってからエージェント先の仕事とも距離を置き、白紙で日々を過ごし始めてはや一ヶ月が経ちました。

こんなわたしですが、家族、友人からの印象は決まって

「サンタサンタといえば仕事か学びに、いつも何か飛び回っている」

と言われる、少し前まではスケジュール帳は予定でびっしりタイプの人間でした。

なのでそこからピタッと立ち止まる選択は、自分にとっては楽というよりも恐怖でいっぱいでして。でも今は、この選択をして良かったなということ、そして「立ち止まり続ける勇気」の大切さを感じています。今日はそのあたりのことについて書きたいと思います。もしよろしければお付き合いください^^

 

・動けば動くほど喜びのある世界からUターンしたきっかけをくれた疑問。

わたしはもともと「何もしない」ということがすごく苦手でした。だって何も成長していない感じがするし、変化も面白みもないし…という考えだったのですね。

何より仕事も学ぶことも好きで、なにか工夫をしたり、能力を高めたり、機転を利かせて動いた先に結果が出たり、コトが思い通りに運んだりすると「よっしゃ!」って感じで、そこには達成感があって面白いなと思っていたんです。

そういう喜びがあってこそ人生だし、だから自分が動かないと、仕事とか、学びの場とか、そういうどこかへ出かけないことには気付きも感動も何もない、人間がダメになる、と思っていたんです。

でも、この宇宙の法則とか成り立ちとかを知って、自然の有りように目を向けていくうちに、徐々にあれ?もしかして?と思うようなことが出てきました。

 

・がんばって成長している植物はおらず、地球もがんばって回っていないけど、そのままで他者に貢献してる。

簡単に言うと、こういうところ↑です。

たんぽぽも屋久島の杉の木も(行ったこと無いけど…)、「伸びるべ!伸びるべ!!」って気合を入れて育っていないけど、そのことで他の生き物に貢献してる。

私たちが感じ取れないほどに、ものすごい速さで自転公転している地球も、「まわるべ!まわるべ!!」って超力んでいないけど、そこに生命存続のものすごい価値を生み出してる。

宇宙でさえ、膨張し続けているといえども「広がるぜ!広がるぜー!!」って念力を出していないけど、(同上)。

「すごーく自然」であることで、
「すごーく命としてそのまんま」の姿で、他者に貢献をしている。

だったら本来、そのシステムの中で生きている人間も、「それ」があるはずで、自分の「それ」を見たい。そのときに、自分が今までやってきた「がんばる」「行動する」の延長線上とは全然違う次元の何かが生まれるのではないかな、と思ったんです。

だってわたしの仕事の取り組み方は、確かに働くことは好きでも自然じゃないことが多々ありましたし(上手く言えないのですが身体に力が入り過ぎていたり、達成にこだわり過ぎたり刺激を好んだり頭でいろいろこねくり回していたり。)、どこかで根底に、立ち止まることの恐怖があって走り続けていたようにも思います。

立ち止まる恐怖というのは

「働いていなかったら他者や社会に何も与えないことになるのではないか。」

「ということは自分には価値がない(とみなされる)のではないか。」

もしくは

「何もしないということには退屈しかない。楽しみがあるわけがない。」

「何もしないなんてダメ人間だ」

という想いが根底にあり、「だから怖い→だから走り続けないといけないから→どうせ走り続けるなら面白さ(達成感)をたくさん生み出さなくちゃ」という構図がわたしにはできていたように思います。

「こうあらねばいけない」というのが前提でのハリボテの「仕事(動くの)楽しい」だったんですよね。その時はそんなことさえ気づかなかったのですが…。

そういう想いをベースに握って走っていたって、いくら努力して自分を磨いたり本を読んでモチベーションを高めたりしても、上昇するそれはハリボテのニセモノのモチベーションです。

そして自然界で生きてる命に等しく存在している“命のモチベーション”みたいなものが本来あるはずなのに、それが力を出す機会を与えないほどに自分のハリボテのモチベーションががっちりとフタをしてしまっていたのでした。なので本来の力を取り戻すには、ハリボテを一度ぶっ壊さないといけない。ぶっ壊す=立ち止まる。

これがわたしが、「立ち止まり続ける(自分の本来の力が再生されるまで)」にチャレンジし始めた理由です。

 

・立ち止まってみて見えた新しい世界。

立ち止まるというのは「何も自分に課さない」ということなので、最初はものすごくソワソワして退屈に感じてしんどく、注意していないと何か新しいことに手を付けたくなりました。しかもこれまでのやり方でそれなりに結果を出していれば、何がしかのお誘いなどが来るのです。しかしそのたびにグッとガマン

別に苦行でそうしていたのではなく^^;、自分が自分の自然な想いからではなく、「怖いと感じること」を避けるためにまた何かをしようというところに自分自身を誤魔化して自分に嘘をつきたくなかったからです。

そうしたら徐々に、走り続けていたときには見えなかったこと感じなかったことがいろいろと出てきました。

まず、自分が動いていないと、家に一人でいたら何も成長や面白みがないと思っていたのですが、全くそんなことはありませんでした。むしろ自分が動かない分、寸分のムダも無くあちらから、必要なこと(モノ)が必要なタイミングでやってくるのです。

たとえばなのですが小さいことであれば、ふと自分の中に何かの課題が湧きでた時に、旦那さんが見ようと行ったDVDの内容がその答えにそのままつながったり。

伊豆の旅行も祖父の死も、一見良いことも悪いと思われることも、わたしがそのときに必要な気づきや経験に無駄なくつながり、むしろこれまでのどの時よりも、ものすごく成長している実感があります。

(この「成長」を何と捉えるかということにもなると思うのですが、そのあたりはまた別の記事で書いてみたいと思います^^)

それまでのわたしは「動いてこそ縁やチャンスは捉えられるもの」と思い込んでいましたがそうではなく、ただ自分の内面を淡々と目をそらさずに見つめ続けて向き合って昇華していくと、それは視覚的には動いているように見えなくても、忙しく日々に追われているよりもエネルギーとしてはよっぽど「動いている」ことになるのですよね。

逆に全てのことを「自分がやるんだ」「自分の力で得るんだ」と我で捉えていると、自分がとにかく能動的に忙しく動き過ぎてしまうので、見えない流れがもたらしてくれる縁やらチャンスやらが入り込むスキがないのです。(頭ではそれらを知っていても、自分で体感しないとやっぱりわからないんだなと実感しました)

今日このことを書こうと思ったのは、祖父のお葬式後、前向きな気持をもらい、そこからなんとなくなのですが自分の中で思っていた今までとは違うモチベーションが生まれている感じがして、「おっ、ちょっと変化していきているのかも!^0^」と感じたためです。(あ、つまり良い意味です!)

もし仮に、「立ち止まることが悪いこと」という想いで自分を生きるのが難しく感じている方などがもしいたら、何か少しでもヒントになれば嬉しいです。

以上、お読みいただき感謝を込めて^^明日もみんなで楽しい一日になりますように^^!