昨日、このような記事を書かせていただいたのですが、
※昨日の記事↓
「気持ちを注ぐ以上にこれから大切なのは、気持ちを抜いていくこと」
と書かせていただいたのですが、これの補足をさせてください!
気持ちを抜くと何が残るか?というお話です。
なんでしょうか。
何も残らないのでしょうか?
ノンノン!です!
そこには、
無関心でも、愛の無い状態でもなく、
そこにはただただもう、
エゴを越えた、エゴを取り払った、すっごく深い愛。
人類愛みたいなもの。
無償の愛みたいなもの。
そういうものが、ちゃんと、残ります。
(残るというか、埋もれてたのが、現れます。)
よく、親は子に無償の愛を注ぐといいますが、それでもなお、
過去の記憶に振り回されて人は、大切で手放したくない人であればあるほど、
その無償の愛の上にエゴの愛を乗せて一緒に注いでいってしまったりする。
(それも愛が深いゆえ!のステキなことなのですが。)
だからこそ、気持ちを抜く、っていう言葉が出てきたんだと思います。
抜いた先に、本当のそれらが出てくるから。
自分も欲しかった、相手も包まれたかった、それが。
穏やかで、安心で、所有感も不足感も生まれない、
生まれないからこそそれらに振り回されることもない、
それが。
そして、人類愛みたいな、なんて言ってしまったら、
ドキドキのようなトキメキも、うわあ〜!!みたいな感動を失う、
捨てなくちゃみたいな感じがするかもしれないのですが
そんなことないです!
(わたしも毎日、旦那さんに、美味しいものに、キレイなものにトキメいています!)
つまらない人間になるためにそうなるんではなくて、
あくまでその土台という本質を知ってこそ、
失うことを恐れずに、今に集中して、
そういう感情をもっと深く、濃く味わうこと、
たくさん”遊ぶ(楽しむ)”ことができるんですよね。
だって、疲れると思うのです。
自分のこと(得)だけ考えて、
「引き寄せた!」「シンクロがあった!」って喜んでは、
それらが無い日が続けば、
「これでいいんだろうか?」「この先大丈夫なんだろうか?」ってソワソワしながら、
「でもこれで成功して輝いているあの人がいるんだから、きっといつか自分も…」
と希望を持って、また次のラッキーを待って、
◯◯メソッドとかにせっせと取り組む。
(その日を得るために。でもその不安は隠しながら。)
それはやっぱり、苦しいと思うのです。もったいないと、思うのです。
そしてそれだったら、自分の人生だけど他人の人生をなぞっているだけで。
そしてそんなことをやっていたら、あっという間に人生が終わってしまう!!
そんなゲームに右往左往するために、この命で生まれてきたんじゃ
なーい!!!
(もちろん、本人の自由だから良い悪いないんですが!)
なので、そこに惜しみながらも見切りをつけて
(惜しむ気持ち自体無くなるのを待ってても難しいから)、
その奥にあるモノを、
それを!そこを!
出していきませんか!?(もしよろしければ!!)
という記事でした!
恐らくそういうところを汲み取ろうとしてくださったコメントなど、
本当にとても嬉しかったです。いつも有難うございます!^^
さて、今日の記事は短いですが、大体わたしの記事は長過ぎるので、
こんな日もあって良いのですよね。
今日はこれから、このブログでもよく登場する社長のもとへ、
社長お手製の料理を振る舞う会のための料理のお手伝い、というアルバイトに行ってきます!楽しそうです!
料理の腕が相当に低いサンタサンタ、
ぜひ社長のワザを盗みに行ってきたいと思います!
それでは今日も、良い一日を!
お読みいただき感謝を込めて^^