「すみません、ただのオンナに戻ります」。

良い子を卒業して、「ただそのままの自分(ただのオンナな自分)」を大切に、がんばらずに生きる方法をお伝えしてます◎

【続き】かつての生きづらさ、しんどさの正体。わたしにはいつも「ボーっとすること」が必要だった☆

こちらの記事の続きです◎

santasantasan.hatenablog.com

 

娘におっぱいあげてもあげても、搾乳してもしても、硬くなって痛みがひかないおっぱいと、鉛のようにだるーく重ーくなった体で、

もう両親帰っちゃったらこのあとやばい、、、!!(やっていけんのか!!)と思っていたのですが、実際のところ、

実家家族が帰っていってから数時間もたたずして、

どんどん元気が戻り、おっぱいも気づけばふわふわに戻っておりました。笑

 

ここで最初に思ったのは、

「やっぱり、わたしやジョーさんの生き方の選択や価値観は、実家家族のそれとはもう全然違うから、一緒にいると苦しくなるのは仕方ないんだな。」と、

頭のどこかで

「わたしたちの生き方=新しい、良い」

「両親の生き方=古い、悪い」

というふうに思うことでスッキリさせようとしていたんですね。

(お父さんお母さんせっかく来てくれたのに本当すみません…)

 

でも、やっぱり何かそれは違うなあ…と、自分の中に保留にしておくことにしました。

 

そうしたら、ちょうどその日と、その翌日。

娘の様子が変になりました。

変といっても心配な感じではなくて、

日中、異常によく寝る。(※ふだんは日中は結構よく起きてる。そして夜よく寝ている。)

 

元旦と2日は、両親と弟だけでなく従姉妹とその子どもたち総勢10人くらいが入れ替わり立ち替わりで娘に会いにきてくれたので、

やっぱり興奮したんだな〜、そりゃそうか、と思ったんです。

 

で、そのときに、

父(だったか母だったか)が何気なく言ったことを思い出したんですよね。

 

「赤ちゃんは、寝てる間にその日一日に触れたものすごい情報量を、ものすごい勢いで処理してるんだ」

と。

 

確かに、翌日の3日から、目に見えて娘の表情がまた一段と、ものすごく豊かになったんですね。

あと、「うー」とか「あー」とか、お話する回数もとっても増えて。

 

これってたぶん、いろんな人にあって、いろんな表情、いろんな言葉、大人たち(小さい子たちも)しゃべってるの目の当たりにしたからだと思ったんです。

 

それを見て、感じて、夢の中で情報処理して、自分もやってみたいな、と思ってやってみてるんだ、と。

 

これは、俗にいう、「インプット」と「アウトプット」ってやつか…?

 

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お姉さま方(従姉妹の娘ちゃんたち)の洗礼を受ける娘…笑
 

 

と思いつつ、なんかその言葉は私的にしっくりこない。

 

とゆうのも、世の中的な「インプットして、アウトプットしよう!!」って、「自分に無いものを外から取り入れて、自分の中に入れて、外にそれを出そう」っていう感覚で使われるでしょう?

 

「無い」に「入れる」が前提じゃないですか。

 

でも、娘は確かに言葉をまだ発せないんだけれど、じゃあ「無い」のかといったら、そうじゃないなと。

その能力は、もうどこかにあって、「思い出す」という感じなのか。

 

外界から刺激を受けて、何かが自分の中に芽生えて、

そうして自分の中に深く潜ってそのエッセンスを「取りに潜る」というイメージ。

海の底に潜っていく、海女さんみたいイメージなのです。

 

けっして、無かったものを外側から自分に足す、のではなくて、

外側の刺激はあくまで自分の内側に潜る「きっかけ」に過ぎないんだ。

 

じゃあ自分の内側には何があるかって、やっぱり宇宙みたいな、無限の叡智とつながっていると思うのだ。

 

宇宙も神様も、そういう意味では、深く潜った先には同じパイプでつながっている自分自身。

誰に何をおそわらなくても、何を学ばなくても、答えを持っている自分自身。

 

外界の縁は、その「何か」を「インプット」するための縁なのではなくて、いつも、

その「何か」が自分の中にすでにあること、そのきっかけやヒントを与えてくれるための縁でしかないのだ。

 

だから赤ちゃんは、24時間365日ひたすらに「学んでる」のだけど、大人のわたしたちが言う「学び」は、してないじゃないですか??

 

頭で考えて、取り入れよう取り入れよう、無いから足そう、声の出し方を手法として教わろう、とか、しない。笑

 

きっと素直に憧れて、望んで、そのこころのままに自分の中に「潜って」、取ってきたのだ。

 

「外」を、どのように学びの種とみなしているか。

 

以前コミュニティの中で「学びの極意」という動画配信もしたけれど、

前提のここの違いが、何を聞いても、何に触れても、全部違ってしまうのじゃないか。

 

そんなことも思って、ノートにひたすらに書いていた。

これも、父(母?)の言葉と、娘の様子という外界の縁から、わたし自身がわたしの中に潜って「わかった(言葉になった)」ことなんだ。

最近、ノート時間も持てるようになった。とゆうか、作るようになった。

 

で。

 

そんなことを思った時、今回のお正月のしんどさの正体もわかった気がしたのです。

 

そんな、よく寝ている娘を見ていてもうひとつ父の言葉で思い出したのが、わたしが小さい頃のエピソードなのですが。

 

父が、窓の外を見ているわたし(2〜3歳くらい?)に「真穂は何してるんだ?」と聞いたところ、当時のわたしは

「真穂ちゃん、ボーッとしてるの。」

と答えたらしい。

 

で、父は、この子は大物になるぞ…と思ったらしい。何故。

 

わたしは、父がたびたびこのエピソードを話すたびに、

小さい頃のわたしはそうだったんだな、とだけ捉えていたんですが、今回寝ている娘を見ていてわかったこと。

 

当時のわたしにとってはその、「ボーッとしてる時間」が、娘が寝ている時間と同じように「自分の内側から、源(神でも宇宙でもなんでもいい)に潜っている時間」だったのだろうな、と。

 

外界の縁から、たくさんの刺激を受けて、たくさんの何かを感じ取って、それを処理して肉体の自分の内側から表現するために(その”表現”とは、言葉・行動・あり方、いろいろだと思う)、「ボーッとする時間」が必要だったんだと。

 

そして、わたしは、33歳になった今でも、この頃の自分となんら変わってないのだと

 

たいていの人は、年を重ねていくにつれて、幼稚園、学校、会社、等々、

社会に出ていって、「やらなくてはいけないこと」「タスク」が増えていくから(小学生だって宿題があって、幼稚園児だって、決まった時間に登園したり、”みんなと一緒”が当たり前に教え込まれていくもんね)、

「それをこなすこと」に自分の人生という時間をつぎ込んで、

だんだんと、赤ちゃんの頃には当たり前にもっていた、

自分の内側に潜り、源と繋がる時間を真っ先にすり減らし、

だんだんとその力を失っていくのだと思う。

 

俗にいう「自分で考える」ことができない人が、とっても多いのはそのせいじゃないか。

俗にいう「感じる」ことを「難しい(わからない)」という人が、とっても多いのはそのせいじゃないか。

 

外から「インプット」して、それを「アウトプット」することしかしなくなっていくから。

やること・やらなくてはいけないことがいっぱいあるから、いちいち自分の中に潜って内側からそれを表現する…なんてしてる暇がなくなるのだ。

 そして無意識にどこかでその時間、「間」を必要とする自分を、周りと比較してジャッジしたり、責めたりする。「こんなわたしはダメなんだ(劣ってる)」と。

 

実際わたし自身も、20代の、人生が如何ともし難いくらい問題まみれだった頃、確かに「しなくてはいけないこと・あるべき姿(と自分で勝手に思っていたもの)」を、せめて平均点並みに満たしていくことに忙しくて、自分の内側に潜るなんて感覚も発想も無かったように思うのです。

だから、心の勉強をしていたときは、その「手法」や「すごい人が言っていること」を「インプット」しようと必死だった気がする。(のわりに結果がでなかったのはそのためか。)

 

でも、あるときから生き方を変えると決めて、外側から学ぶのをやめた…のではなくて、その、「学び方」「接触のしかた」が変わったのだなあ、と。

 

それは先程から書いているとおり、インプットではなく、潜るようになった。

 

潜ることが、わたしという命にいつも潤いを取り戻してくれる、何よりも大切な時間になった。

 

だから、

母が来てくれた時、常に動いている母に「合わせよう」とすると、「ボーッと自分の中に潜る時間」が取れなくて、ものすごくしんどくなったのだな。

ノート書く時間が取れないのも同じく。。。

 

それは、世の中的には「母であれば(妻であれば・女であれば)当たり前」であっても、わたしにとっては、わたしの命を渇かすようなことだから。

 

一言で言えば病的にマイペースってことなんだと思うんですが。笑

 

だから、社会人時代、ただ、周囲と同じペースで当たり前のことを当たり前にこなすことがあんなにできなくて、あんなにしんどかったのか。

 

それは、わたしが当時いた社会の枠組みの中では

「ダメ(問題)」というレッテルを貼られてしまうのかもしれません。

 

が、「病的に…」というのも外側(社会)からわたしを見たときの言葉であって、

わたしの真実は、それは、わたしがわたしであるためにとても大切なことなんですよね。

 

そしてそれを突き詰めた時、また別の世界では、実際、「能力(才能)」となるものでもあったと思う。

なぜなら、手前味噌ながらたくさんの方の心に届いていったこのブログは、わたし自身がひたすら「ボーッとして」「自分の中に潜っていった」結果、言葉になり、行動になり、あり方になって、紡がれたものだから。

なんならこれ書いてる間もだいぶボーッとしてる。笑 ブログは、「ボーッとしながら」でないと、頭浸かってたら書けないです。笑

 

だからこそ、「ボーッとする時間(あるいは睡眠時間)がたっぷりと必要なこと」「人と同じ速度で同じことができないこと」「いちいち立ち止まってしまうこと」そしてあの頃の「生きづらさ」は、

マイナスなことなんかじゃなく、明らかにわたしにとっては、わたしという命(個)に与えられた繁栄の種だったんだな。

 

けど、母親になったことで、またそれが「本当にこんなんで良いのかな??」って揺り戻しが来て。「世間一般でいうところの母親とはどうあるべきか」を、母の姿から勝手に敏感に感じ取りすぎてしまったようです^^;

 

「ただ自分であること」って本当にシンプルなのに、ただそれだけのことなのに、けれどもこんなにカンタンにこの積み重ねてきた3年間がブレまくるくらい、どんな状況の中からでも、どのスタート地点からでも、そう「在り続ける」って、難しいことなんだな、と感じたんですね。少なくともわたしにとっては、という意味なんですが。

 

できる人はカンタンにできるのかもしれないですが…。やっぱりわたしは、けっして強い器用な人間ではない中で、この生き方をしてきたことで、いろいろなことを叶えることができただけなので。

 

だから、当時の自分=今の自分のように、けっして器用でも強くも無くて、自分の「個性(違い)」をわたしのように「劣ってる」とみなしてしまってる人がもしいるなら、

今までやってきたこと、これから改めてまたしっかりと積み重ねていきたいことを、一緒にやっていきたいし、伝えていきたい、と思ってこのプログラムをやりたいな、と思いました。

 

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仕事はわたしにとって、頭をつかう時間ではなく、ものすごく「深く潜る」時間でもあるのです。

それを子育てを言い訳に手放してしまうのではなくて、もっともっとその時間を意識的に取っていこう、という気持ちの現われでもあります。

だけど、じゃあ子育てを手放すとか、ママを手放すとか、そんな表面的なことじゃなくて、

わたしが深く潜ることは、娘との時間の充実にも、確実に繋がることだと思うから。

そのことを、誰の理解も関係なく、わたしだけが確信して、自分の信じるままに、ただ黙って築き上げていくこと。

このブログを始めた頃と同じように。

求めてくださる方がいるかどうかはまたわかりませんが、まずは今思う最善の一手を講じてみたいと思います◎

 

わたし自身が、わたしを生きていくことで、よりいっそう、わたしとわたしの大切な人たちと一緒に心豊かに笑顔で過ごせますように。

みなさんも、そうであれますように◎そんな未来に、つながっていけますように◎