「すみません、ただのオンナに戻ります」。

良い子を卒業して、「ただそのままの自分(ただのオンナな自分)」を大切に、がんばらずに生きる方法をお伝えしてます◎

だからずーっと、「そこ止まり」の人生。

最近繋がって、強烈に「不潔だな」と思うことがあり、

わたしの中で改めて、完璧に排除したこと、というのがあるのですが。

 

 

わたし、このブログとこの生き方をスタートさせてからというもの、

自分で勝手にしあわせになって、

そこからはずっと、

いろいろ人生の波はあれど、

ある種ずっと、しあわせで楽しい最高の人生だな!って感じています。

 

でもだからといって、「今で十分」と思ったこともなくて、

次々トライしたいことはあるし、

日々、また自分の知らない世界を知ったり、人と深く繋がってみては、

もっともっと人生って楽しく面白くできるんだな、って、

ある種、大げさでなく、「生きてる喜び(生かされてる喜び)」を、日々、噛み締めています。

 

旦那のジョーさんも、表にはまったく出さないけれどそうした「人生を面白く楽しく生きていこうぜ」的スタンスは一緒なので、

基本、二人で伊東のこの地でぼーっとマイペースに過ごしつつ、

いわゆる世の中的に「熱い人間」とみなされるような、「情熱的にハイに語るタイプ」ではないので。ふたりとも。

内に熱いものを秘めて、とても能動的にこの自分の人生を生きてると思います。

 

 

たぶん順番的には、

どんな状況であっても差し支えなく、

人生に対してものすごく能動的だから、

結果として勝手に、人生自体がどんどん面白いものになっていく。

 

 

それは他人から見てどうとかではなく、

あくまで【自分たちにとって】、

どんなことに心が惹かれ、また、どんなことに心がワクワクと(静かながらも)踊るのかを、わたしたちはちゃんと知っている。

 

そこがかなり一致している夫婦であるからこそ、

相乗効果で、お互いが存在することが有り難いし、

お互いの存在がより、自分の人生を楽しいものにさせてくれているのだと思う。

(どっちかだけ、ではなくてね。)

 

何が言いたいのかというと、

人生に何も不満や苦痛が無かったとしても、あったとしても、ある意味関係なく、

常に人生や生きることに対して能動的な人は最強なんだと思う、ということ。

 

で、わたしは自分がそういう人間だと思うし、

一番身近な旦那さんも、まごうことなくそういう人間なので、

そしてそういうわたしたちがわざわざ関わりたいって思う人達はみんな、

当たり前にそんなスタンスで生きてる人たちばっかりなので、

じゃなきゃわざわざ関わりたいとは思わない。誰彼構わず繋がりたいと思わないし、それこそわたしにとっては「無駄なこと」だし、人とつながらなくてもさみしいとは思わないから。

 

なのである意味、全人類、そういうスタンスで人生を生きているのだと、

なんか、当たり前にそのように思っていたのです。

そう、最近までは。

 

しかしわたしは最近気づいたのです。

 

むしろこっち(わたしら)みたいのは少数派なのだな??と。

 

そしてもう少し突っ込んで観察してみて、気がついた。

 

世の中の大多数の人=一般大衆は、

 

「自分がどういう人生をどんなふうに生きたらHAPPYか」という基準で人生に向き合っているのではなくて、

 

自分の周りにいる人と自分を比べたときに、

 

そこそこ同じものを持っていられて、

(家とか、車とかっていう「持ち物」だけじゃなくて、結婚してるとか、子供がいるとか、年に一度は家族で旅行に行けるとか、っていう「同じ」ってやつね)

 

そこそこ「フツー」からはみ出していなくて、

 

そこそこ「嫌なこと」や「問題」が無ければ、

 

それが「良い人生」。

 

 

だから実際望んでいるのは

 

「自分にとってどうか」や

 

「自分の心がどうか」ではなくて、

 

「そのあたり(であればまあ良い=HAPPY)」

 

というところなのだ。

 

ということに。

 

目指してるHAPPYというのが、つまり、そういうところ。

そこ止まり。

 

つまり、

自分にとって=自分の好みの「プラス、プラス」をどんどん掛け合わせて、自分にとって大好きでHAPPYな人生をかたちにしていく、ということには実はあまり真剣でもなければ目線も興味も無くて、

(それは、「そんなこと、今の自分では到底夢のまた夢、実現できそうにないと思っているからだよ」というのは、それっぽい理屈として一見納得できそうで実は、本質はそこじゃないとわたしは思う。)

 

今の自分がちょっと、周りから出遅れているだとか、

世の中のフツーからはみ出ている気がする(あるいはなんとかはみ出たくない、はみ出てるようになんとしてでも見られたくない)とか、

 

あるいは周りが持っているように映るのに自分は持てていないものがあるから、そこをなんとかしたいとか、

(恋愛、結婚、収入、妊娠、その他非日常と分類されるような経験等々)

 

そこをなんとか、

「みんなと並べたときに」

「マイナス的位置(っぽいところ)」から「プラス的位置(っぽいところ)」、

あるいは「ゼロ地点(っぽいところ=”みんなとそこそこ一緒”)」

になることを求めていて、

気にしていて、

 

つまり人生に対して気にかけているところ、こだわっているところが

「そこ止まり」なのです。

 

「そこ」が叶えば良い!と。

 

で、ほんとに、「そこ」が叶ったら、あとはどうしたい?とかいうのがない。

ひとつの「そこ」が叶ったら、

また周りを見渡して、もう少し上のレベル(と自分が思う人達)が持っているものをまた求め始めて、、、という無限ループ。

 

結局常に、「自分」ではなく「誰か」を基準に、そのものさしで人生の充実度を決めつけたまま、

その永遠に終わらないゲームに飲まれて年取って死んでいく。

 

 

で、そんなんだから、

(自分の命や人生に対してそんな程度の姿勢だから、)

 

結果的には、「それさえ」も叶わない(叶いにくい)のだと思うんですけどね。

 

 

 

そういう人は、同じようにこうした世界のことわりに興味を持ち、そこから学ぼう、としていても、

「いかにお金や労力をかけずに」

「いかに最短で」

「マイナスをそこそこに持っていけるか」

というところにばかり注力してしまって

その視点を当たり前としてしまって、疑わ無いんだろう。

何かを得るときに、「賢い選択」を良いものとしてること自体が、

よもや生き方においてはまったく賢くない、ということに気づけなかったりする。

 

 

もし、一昔前のように、

時代とか経済がもっと上向きだった頃なら、

 

あるいは、人の生き方や価値観がもっと、ここまで多様化していなくて、

「画一的」「単一的」だった頃なら、

 

あるいはもっと、ネットなんて普及していない、こんなにも情報が溢れてるわけじゃない自分の半径●メートルの人の生活が自分にとっての「当たり前の世界」だった頃なら、

「そういうスタンス」でもなんとかなった=そこそこに満足感を感じて生きていけた と思うんですよ。

 

でも今は、時代や経済はけっして上向きじゃないから、

「そこそこあるからいっか」というふうに思えない状況の人も増えていると思うし、

 

価値観が多様化してて、更にその多様化してる価値観のどれとも、

住んでる場所や今いる環境なく、誰もが否応なく触れられる(見れてしまう)からこそ、

「これ持っときゃ(やっときゃ)ある程度しあわせって言えるでしょ」と振り切れなくなってると思う。

(※たとえば女性で言うなら、結婚しておけばしあわせ、子供がいればしあわせ、それなりの仕事に就ければしあわせ、とか、そういう「正解っぽいこと」の影響力が薄れてる、ってこと。)

 

だから、

「みんなとある程度同じ。はみ出てないし、ダメでもないわたし=しあわせ」という基準によって、

「そこ」でしあわせを感じたり、安心を感じたり生きている人が、

(とゆうかしつこいけどたぶん無意識でこの基準で生きてる人が世の9割を占めてる)

 

そういう人がたまに、SNSやらネットやらで

「”わたし”と同レベルっぽいはずなのに、何やら自由そう(あるいはお金持ってそう、人生充実してそう)で輝いているような人」

という人を見つけてしまった途端、そしてそれは主に同性のみに発動する…笑

 

その存在がガマンならなくなったり、

間違ってる、と糾弾したくなったりする、のだと思う。

 

そして急に自分のしあわせが、「足りない」ように映り、

「揺らぐ」のだと思う。

そしてそれが嫌だから更に、「わたしもそれなりにしあわせである証拠」を、

他人との比較(基準)の中から必死でかき集めようとするのだと思う。

 

それだとずっと、永久に変わらないのに。

 

本当はその「SNSやネットで見かけた輝いているように映る人」って、

ただただ、

誰かの基準ではなく自分の基準で自分の心に従って生きることを決めて、

その道を進んだ人なだけ、だと思うのだけれど。

(違う場合もあるかもだけど…^^;)

 

多様な価値観・生き方に触れたくない、と思っても、

触れないことはなかなかに避けられない時代だと思う。

 

そのことに、わたしはとても救われたんですよね。

「ああ、なんでも”あり”なんだ」と。

「自分の人生だから、自分の好きに決めていいんだ(自分で責任さえ取れば。)」と。

 

そうして、袖触れ合うほどの、あるいはネットなど介して「袖さえ触れ合うことのない」ほどの些細な些細な縁の中にも、

その希望を見出して、ヒントを見出して、

そして自分も、そのときそのときなりの「お金」「エネルギー」「労力」を真剣にかけて、

人生に生かしてきたのです。

ここで「みんな」との比較の中で常に自分の選択を決めている人は、

学びにかけるお金やエネルギーや労力も「これくらいまで」というのを「周り」を見て決めている。。。笑

 

今、「ゆくゆくはAIに仕事を取られる」とか、そんなふうな話もいろいろなところで言われるけど。

 

否応なしに変わっていく時代のありとあらゆることを、

「マイナス」なものにしてしまうのか「プラス」の糧とできるのか、

それは自分次第だと思う。

 

せっかく生まれてこれて、今ここに生きている。

 

なら、もっともっと、自分の人生に、バカみたいに真剣に、能動的に生きてみたい。

どこまで楽しく、おもしろおかしくできるかな??と!

 

「人」って、本来そういうものだと思うのだ。

 

なのに、自分の人生なのに、周りという誰かを見て、それを基準にしてそこにエネルギーを注いでいたら、

輝ける「人(命)」だったものが、

ただの「一般大衆=庶民のうちの一部」に変わってしまうのだと思う。

 

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庶民(一般大衆)って、お金のあるなしの定義じゃないんですよね。

 

 

わたしは、付き合う人も、気持ちをかける人も、

「大衆(庶民)」ではなく、「人(命)」と関わっていきたい。

 

「人(命)」と繋がり合って、触発しあって、生きていきたい。

 

そして私自身も「大衆(庶民)」ではありたくない。

あくまでただの女、ただの「青戸真穂(という命)」として、

自分の心で堂々、生ききりたい。

 

それが、「自分を大切にする」ってこと、でしょう??

基本、なのです◎

 

 

オマケの今日の検診での写真。

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37週に入ったので、エコーではなく寝転がって心拍の確認30分!
(病院の本を読みながら待機中のジョーさん。)

 

引き続き、「自分にとってのしあわせ」を、積み重ねてまいりましょう♡