「すみません、ただのオンナに戻ります」。

良い子を卒業して、「ただそのままの自分(ただのオンナな自分)」を大切に、がんばらずに生きる方法をお伝えしてます◎

「素晴らしいことをしている私」という儚い自信と優越感と、不自然な【感動】❤安心安全とは対極の世界❤

先日の女性のための生き方講座のレポなどですっかり遅くなってしまいましたが、

こちらの記事の続きです☆

そういえば講座のダイジェスト動画、一日ですでに100回の再生回数を越えました!見てくださった方ありがとうございます!!!

↓ 

santasantasan.hatenablog.com

 

santasantasan.hatenablog.com

 

ひとつ前の記事で、

 

正しさを語っておけば、問題(間違ってること)があることにしておけば、 すっごいラク!!メリットありまくり!!笑

けど、それやっちゃうとやっぱり、 自分のいる世界が、 安心安全の世界からどんどんかけ離れて行っちゃうんです。

これが、たぶん メリットを1000倍以上に上回る、 自分を超絶苦しめるデメリット、 なんですよ。

「悪」「問題」「間違っていること」があることにしてしまうメリットとは❤【「問題解決」「社会貢献」「正義」の落とし穴❤②】 - 「すみません、ただのオンナに戻ります」。

 

と書きましたが、なぜそこに【自分を超絶苦しめるデメリット(メリットを1000倍上回るデメリット)】があると思うかというと、

 

なぜってそのラクさに逃げちゃうと、結局はいつも、”外側の大多数の人から見た”正当性・素晴らしさがあることでないと自分のことを選択できなくなるから、だと思うんです。

 

自分の頭で考えて、自分の意志で、自分の在り方を決められない。(決めてるつもりかもしれなくても。)

 

人の共感や同情や同調がないと安心できない。本当の自信が持てない。

 

さらに、そんな風に「正しさ」「美しさ(素晴らしさ)」をベースに自分を発信していると、

どうしても無意識で、そこに対して自分の人望やら支持やら売上やらがあると思ってしまうから

(本当はそんなことなくても。そして自分でも「そう思っているつもりはない=みんな素のわたしを愛してくれてるはずだ」と頭では思っていても。)

 

常に、自分の意見や言葉や在り方の中に、

正しさや美しさ(素晴らしさ)を含んでいないと、それらの人望やら支持やら売上やらが維持できないと、頭のどこかで思っているから。

 

だからこそ、結局は常に、どこかで、

「自分の言ってること、やってることは”他人から見て”ちゃんと正しく映ってるか??」っていうことを気にして、

自分の在り方・発信することを選択したり、ただ素直に感じたことに対して、一回、

頭を通して整えてから、言葉や在り方をどこかで【作って】る。

 

100%天然そのままの自分(の在り方・言葉)ではいられ無くなるんです。

 

これはね、、、、

すごーーーーーく疲れる。

 

いや、むしろ、

疲れてる、という自覚がないくらい、本当は緊張してるというか、疲弊するというか。

 

だって、頭(思考)が常にフル回転してるんだもん。

ぼーーーっとできない。

ぼーーーーっと、ほんと、【ただのそのまんまの自分】で在れない。

 

いつもどこかで、気が抜けない。身構えてる。

 

 

つまり、

深い安心感のある世界で生きることとは、対極にある在り方なんです。

 

 わたしは女性のすべてを知っているわけではないけれど、

そういうガチガチ状態では頭にばかり血液もいくし、

必然的に体も冷えて、婦人科系に不調をきたすこともあるし、

どうしたって感じることを大切にできなくなってくるから、

のんびり安心してゆるんで生きていくことは両立できなくなってしまうと思う。

 

それはとてもつらいから、やっぱりわたしはオススメはできないなあと思う。

(あくまでわたし個人の好みとしてね)

 

なぜならわたしもそういったときがかつてあって、会社員時代に。

今振り返れば本当に、「あの頃、つらかった」って思うから。

その頃は本当に、無意識で無自覚だったんだけれど。

 

けど、だからといって「わからなかったから仕方ない」わけではなくて、

あくまで自分のことなのだから

「わからないことにしておきたかったメリット」というのがやっぱりあったんですよね。

それが前回書いた、スッキリできるラクさであったり、「正しいことをしているわたし」ということに対して自信や優越感を持っていたかったから。

良いことをしていると、褒められることも多いからね。

 

santasantasan.hatenablog.com

懐かしい記事。笑

 

 

それを当時は捨てがたいようにがめつく思っていて、結果、

無自覚でも確実に「自分で選んでいた」と今なら思います。

 

だけどそれはどこかで苦しいから、

その苦しさを少しでもスッキリさせるために、 

より自分を正当化するために、

ますます「悪者(問題)」が必要だった頃があった。

(「これで良いんだ、わたしは間違ってないんだ」って思いたいから)

 

けど、絶対深いとこでどこかで、自分でそういう風にスッキリするために誰かを悪者にしてるってわかってるから、

やましさと後ろめたさをいつも抱えてることになる。

 

で、それが苦しいから、票集めみたいな感じで、

自分の思う正義に共感してくれる人、良いと言ってくれる人、似たようなことをやっている(と思える)人たちを、

過剰に評価したり、賞賛したり、リスペクトしたり、大事にしたりしようとする。

 

過剰に感動したりする。

 

この「過剰」っていうのも、ひとつの疑いポイントで。

 

なんとゆうか、過剰に「素晴らしいっ!!!」とか、「最っ高っ!!!」とか、

「アタシ、、、しあわせっっ!!!」

とかって感動(心が激しく揺れまくる)のは、

 

おそらくフェイクなんですよね。

不自然なんです。

 

それは感動というよりも【反応】という感じで、

プラスに過剰に【反応】する人は、その対極として、

マイナスにも過剰に【反応】する。

 

たとえるなら、誰かをすっごく「素晴らしいっ!!!」と過剰に賞賛する人は、

その対極(に在るように見える)別の誰かをものすごく「最っ低!!!(間違ってる!!!)」とジャッジしまくる。

 

何かの思想や理念を過剰にもてはやす人は、

その対極(に在るように見える)別の思想や理念を過剰に蔑視する。(なぜか)見下したり、批判したりする。

 

それはそこに信念があるからというよりも、

その【価値観】や【感情】の上下に、ただブルンブルン振り舞わされてるだけ、という感じ。

 

だから、過剰にプラスの反応をするのは単純に良いことに思えて、深く見てみると、

同時に、マイナス(負)のものすごい強いエネルギーも生み出してることになる。

 

だからそういう意味では、世の中から【悪と言われること】がなくならない要因のひとつには、

それらの対極にある【善と思われること】に対して過剰に評価し、賞賛し、固執する【正義感ある人々が(無意識で)生み出してる】→【ものすごい負のエネルギー】でもあるのではないかな?

と。

 

そして感情も同じく、過剰に感動(反応)している人は、

逆に過剰にマイナス(と思われる)感情が自分に起きることをものすごく恐れるというか、

上手く処理したり受け止めたりができないなと。

 

一喜一憂しているだけ、というか。

 

だから感動ではなく、【反応】。

 

たぶん、ほんとの感動って、

もっとどっしりと、じんわりと、自分の中だけで起きるもの。

(ペラペラと外に向かって言いたくならない。)

 

そこには、「良い」とか「悪い」とか、「正しい」とか「正しくない」とかいう思考は入ってこなくって、

ただただじんわり、静かに、でも確かに、

自分の中に積もっていくもの。

しんしんと静かに大地に降り積もって、地中にゆっくりと溶けていく雪みたいに。

 

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季節外れ〜!笑 目だけでも涼しくなろうっ!笑

 

なんだけど、もしかしたら、

 

過剰に感じて(感動してる感じにして)、

過剰に表現して、

過剰に放つ、

そのようにしてなんぼのもの。

 

という【思い込み】があるのかもしれないね。

 

そうしなきゃ伝わらない、とか。

そうやって【強く】打ち出していかないと、大事なことは届かない。

だから【強さ】が大事。(結果として、過剰に表現するという手段になる。)

 

と思い込んでるのかもしれないね。

 

そうしていつも強さ、激しさ、過激さをことさら強調して、、、

 

しかし、そうすることで自ら自爆していった大人たちもたくさん知ってる。

 

だって、不自然だもん。

 

そりゃ自爆も自滅もする!

 

自然にじんわり感じていたらいい。

そこから自然に滴り落ちたぶんだけ、放てばいい。

無理くり絞り出すんじゃなくて。溢れさせよう!でもなくて。

 

そしたらね、たぶんね、

必要な人には必要なぶん、伝わるんだよ。やっぱり。

自分の中をどこかいつも力を入れて煽らなくても。

 

そしてその経験に基づく体感は、

 

世界を信頼する気持ちをますます深めさせてくれる。

 

「ああ、大丈夫なんだ」と。

 

「そのままのわたしで、自然であれば、過剰にしなくても、大丈夫なんだ」

 

と^^ 

すーごく、安心安全の感覚◎

それが一番、楽ちんじゃない??^^

 

 

そしてもうひとつ、そうやって「正しいこと(素晴らしいこと)」を基準に設けると、

そうじゃない自分は隠さなくちゃ、っていう判断に無意識でなりがち。

 

わたしの場合はそれ絶対しんどいので、

 

外向けも中向けも(=ブログでも講座でも、ジョーさんの前でも親の前でも)、全部、

どこでも誰の前でも普段のただのわたし(のまんまの姿・まんまの言葉)

 

で在ることを、あえて選んでるんですけど。

 

だって、割り切って使い分けとかできないんだもん。

そんな器用ではない。

それができない自分を明らめてます。笑

 

けど、多くの女性はビジネスとかが絡むと、

外向けの自分を無意識で作ってしまって、

その外向けに放ってる言葉とか在り方のほうに、本来のそのまんまの自分を無意識で寄せてってしまってるように思う。

 

 

売りたいがために、「この◯◯メソッドと出逢えたことで、わたしは今、本当に何も悩むことが無くなって!!」とか過剰に言い切っちゃうとか。

(=外向けにそういう風に言っちゃうから、もう、悩んでる姿とかは見せれなくなる。隠さなきゃ!ってなる。むしろ感じたくなくて蓋をして無かったことにしちゃう。)

 

食や農の大切さを外向けに日々語って共感を得てるばっかりに、

マックのポテトやらコンビニのスイーツ食べたくても手を出さないとか、

食べてたとしてお客さんや人に知られちゃいけないと思ってるとか。

(=同じく外向けの自分に合わせてしまって、自分の感じてること、欲求を許容できないし、欲求のままほんとは食べてるとしても、バレたらヤバいってどこかで後ろめたさと緊張感が常にあって疲弊する)

 

 

これを、ほんとーーーに無意識でやってる(=切り分けられない、割り切れない、適度にガス抜きできない、素を見せれない)女性も、

めちゃくちゃ多い気がします。

 

割り切れないならもう、そのまんまで在ればいーのに(わたしのように!笑)

 

でもそれ、つらくてもそっち(隠す方、見せてるほうに寄せちゃうほう)を選んじゃうのは、

先程書いた、その部分で築き上げた自信と優越感が手放せないんだよねたぶん。

 

そしてその疲労感とストレスと緊張状態は確実に自分の中に蓄積されて、

苦しくなるからそこでどうするか??(どうその苦しさを発散させるか??)というと、

 

勝手に作り上げた(そうだとみなした)「悪(問題)」に対して、

 

責めて、見下して、優越感感じて、偉そうに(いかにダメかを)語って、

 

そうやって発散しちゃえ♪

 

 

…って方向にやっぱりなってしまいがちなんですよね。

 

・だって「悪」だから。

・負のエネルギー向けても、「悪」だから別に問題ないし、やっていいし、わたし悪くないもん。(だってわたしは素晴らしいことをしてるから。)

 

って、どこかでそういうことにしているんですよね。

 

こうなると、

 

「悪(問題)」とみなしている存在が必要なのは(そこに思い切り依存しているのは)一体誰だろう??

 

ってことですよね。

 

どこかで常に戦いのエネルギー満載なので、

やはり女性として安心安全の世界でほっこり生きる、ということとは対極の生き方になっちゃいます。

 

今回はビジネスのことで書いたけど、

仕事とか恋愛とかでもまったく同じことが言えるんじゃないかなあ。

 

正しくあろうとして、そこで優越感と自信を感じようとして、

仕事の手を抜けなくて、やらない人をバカにしたり、

上手く男性に甘えられなくて、女子力高い可愛い女性を見下したり。。。

 

それさえも、自分が選んでる「しあわせ感」なのだろうけれどね。

(そこでの優越感&自信=しあわせ という設定。)

 

けど、わたしはそこも経験した上で、そう、わたしもかつてそうだったんですから!!

やっぱり、今のほうがほんとうに安心安全でしあわせだと感じてる。

 

だからわたしはやっぱりこの生き方を、心からオススメしたいかな❤

 

素敵な事業したり、立派な仕事したり、

そうやってがんばって生きてる女性はほんとにたくさんいる!

 

なら、その「がんばり」が、その「良いこと・立派なこと」が、ほんとの意味で、

その人自身もしあわせに、ラクに、あったかくゆるんだ気持ちで在れるといいなと思う❤

そうして当事者である女性たちがほっこりあたたかくHAPPYであれば、必ず周りの人達も、世界さえも、

よりHAPPY❤にしていけると思いますよ❤

力んで「悪」を是正しようとしなくてもね❤

 

このシリーズについては、これにて完❤

何か、誰かの心に届きますように…❤