「すみません、ただのオンナに戻ります」。

良い子を卒業して、「ただそのままの自分(ただのオンナな自分)」を大切に、がんばらずに生きる方法をお伝えしてます◎

【本当の「自分を愛する」ということ。】変わっていくものを受け止めて、永遠では無いかもしれない中でベストを尽くそう♡

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なんだかすごく日曜日のブランチ、って感じのゴハン❤(食べたのおとといですが。笑)

 

先日、以前からずっと気になっていたお店に初めてランチに行ってきたのですが、

このボリュームでドリンクついて(わたしはパイナップルジュースを頼んだ♡)なんと900円!

 

そしてなんと、店長さんはもともと東京に住んでいた人らしく、

21年前、24歳のときに縁もゆかりもない伊東に来て、このお店を始めたんだって。

「なんかもう東京はいいかなあ、って思いましてね〜」って、

24歳でその判断、早いですわ。笑

そしてこういう方、本当に多い!

 

先日、外国人観光客ばかりに溢れる東京に行ったときに思ったんですけど、

もしかしたらここ数十年ですべてがガラリと入れ替わるのかもしれないね。

 

伊豆みたいなところが「観光の町」、東京は「生活中心の地」みたいな当たり前の縮図が、

真逆になってきているし、これからますますなっていくのかも。

 

こちらの行政(市町村)はまだまだ伊東をかつての観光の町として再興させよう(もしくは少しでも現状維持しよう)としている気がするけれど、

ジョーさんの見立てでは伊東は住む町、暮らす町として打ち出したほうが絶対いいよって言ってて、

実際ほんとにそうなってきてるなあと思う。

(東京からの移住者や仕事だけは東京で、などいう人に本当にしょっちゅう出逢う)

 

いろんな価値観がどんどん世の中変わっていっていますね^^

だからこそ、より、自分の意志ですべての物事を取捨選択していく、そんな生き方をしたいですね♪

 

さてさて、東京でのAnniversaryレポはいったん終えつつ、

一連のわたしの疑い案件の最終章?に行ければなと。

santasantasan.hatenablog.com

 

santasantasan.hatenablog.com

 

そういえばレポ②でのスタッフさんとの再会から受け取ったこととして、もうひとつ、

肝心のとこを書いてないことに気づきました。汗

 

それは、そのスタッフさんとの再会のおかげで

「そうだ、わたしってこういう人間だった…」ってことを

リアルに思い出して自分自身を明らめた部分についてです。

 

上の記事にも少し書きましたが、わたしは本当につい最近まで、

そう、去年の年末のホームカミングパーティまでは、

ホテルに対してはやっぱりものすごく、「すごい場所」とみなしていて、

勝手に自分との間に心の境界線みたいなものを引いてたんですね。

その妄想(を採用すること)、

何もプラスにならないからもうやめよう、と思って意気込んで書いたのがこの記事です。

santasantasan.hatenablog.com

 

で、ほんとーーーーに面白いもので、

自分のその妄想の境界線を引くのをやめたら、その日から、

ほんとーーーーにスタッフさんの対応?が変わったんですよね。

この記事に書いたような会話をすることなんて、この二年間無かったし、

 

今回再会した女性スタッフさんも、どちらかというとすごく、クールビューティみたいな感じの方でですね(お顔が外人さんみたいに彫りが綺麗なのですよ…!)

ラウンジでお会いしてたときには、あんなにニコニコ気さくにお話するタイプでは絶対に無かった(とわたしが勝手に思っていた)のですよ!!

 

正直、「別人か?!」くらいにまったく違って映った印象でした。

 

わたしの勝手な妄想フィルターがかかってたんでしょうね〜

 

自意識過剰のパワー、マジでおそろしい。

 

そんな風に、改めて、他人を変えることはできないけれど、

それでも自分の意識次第で本当に多くのことを受け取ることもできれば、

本当にすべてを取りこぼすこともできるんだな、と改めて確信しました。

それでも自意識過剰とか悪い妄想とかって自分でセーブできるものじゃないので、
じゃあどうやって不自然なく手放していくか?については女性のための生き方講座でお伝えしていきますのでお楽しみにです♪

 

でですね、そんな感じで今は、どこに行ってもある程度自然体な自分でどこにでも行けるようになったのですが、(前はハイブランドのお店とかも同じ感覚でどことなく不自然な自分だったかも)

ラウンジに通っていた過去のわたしはそうじゃなかったわけです。

 

なので、その頃のわたしはもっと良い子ぶりっ子というか、

「今日は何名様ですか?」→「あ、二名です〜♡(※ちょっと声色が高い&おしとやか風)みたいな、

自分を綺麗に良い人風に作ってる感じで席について、

お客さん(自分の)が来るまではおとなしく座ってるんです。

 

でも、これは前の記事にも書いたかもですが、いざお客さんが来て話をしだすと、10分も経たないうちに話に集中してヒートアップして、

(たぶん)すごい形相で一気に話をしまくるわけです。

あ、いじめてるとかではもちろん無く、真剣になって周りが見えなくなっちゃうって意味です。

そして間にスタッフさんがお茶を継ぎに来てくださるときとかだけ、「あ♡ありがとうございます〜♡」ってなる。笑

 

そして全てが終わってお客さんをお見送りしたら、

またシトシトとお嬢様モード(って何)なわたしになってお会計して帰っていく、という。

 

今思えば、

ほんとに変な人。※自分比

 

で、そんなの実際はスタッフさんたちは忙しくて気にも留めてなかったと思うのですが、

それでもわたし自身の中では、一応通常は、

他人の目や、「普通」を(どこかで)意識してる自分がいて、

けどこの生き方のことを本気で伝えたい!って思ってるときは、

何よりもその気持ち(てゆうか衝動?)が優先されてしまう。

(=周りの見る目気にする自分とかも吹っ飛んじゃうくらいに。)

 

それは野球選手が、ボールが飛んできたら考えるまでもなく体が先に反応してバットを振ってしまうんだ!!みたいなのと同じくらい。

知らんけど。他にもっと良いたとえ無いんかって感じだけど。 ←無かった。。。

 

で、そうそう。それがわたしなんだよなあ。。。ってことを思い出した。

 

今回のわたしの疑い案件で言うのならば、

「人を大切にしたい」とか「良い関係を育んでいきたい」とかってどんなに【頭で】思っていたとしても、

そんな頭(理性・道徳)の部分を飛び越えちゃうくらいの衝動がここで伝えたいことに対してはあって、

それってそもそもわたしのものなんだけど、

でもわたしがコントロールできるものじゃないんだよな、って。

 

だって、これをコントロールして、自制して矯正して生きていこうと何度もトライしては、いわゆる一般社会に馴染もうとして馴染めなくって(※どうしても最終的に違和感が勝つ)、

そんな自分を明らめて(諦めて)、

「なら、とことん突き詰めて、発揮しまくって生きていこう(てゆうかそれしか道なし)」

として選んだのがこっちの生き方やこの仕事だったんだもん。

 

なんとゆうか、それは自分の言動行動に責任を持ってないわけじゃなくて

 

(「わたしの意志とは違う何かにそうされているんです!」なんて言ったらホラーだわ)

 

ただ、この命とおんなじように「与えられているもの」なのかなあと。

 

人と違って「変わってる」と言われるものを何か持ってる(ような気がする)とか、

それを矯正しよう、一般社会の良しとすることや常識に合わせていこうとするから苦しいのであって、

それはもう「与えられているもの」なのだとして抗わずにむしろ生かしきろうとして生きてみると、かえってすべてがスムーズに流れるようになっていく。

 

そうだそういうことだったし、わたしやジョーさんはそういう人間だった。

 

そしてそんなわたしたちでも受け入れてくれたり良い目線で見てくれる人や、応援してくれてる人はいるし、それは実際こんなに素敵な人たちじゃないか、ということを、

今回おてんとさまは教えてくれたんではなかったか、と。

お空からなりの、エールではなかったか、と、思ったんです。

 

そう、実際に、

自分が素敵だな、とか、尊敬できるな、とか、なんか好きだな、とか思える人や場所が自分の人生を彩ってくれていて、

それは家族もそうだし、パートナーもそうだし、友人もそうだし、時々訪れるこういったお気に入りの場所とそこに関わる人達もそう。

 

わたしは、仕事でもそういう人間関係を培っていきたいし、育んでいきたいんだ、と。

それが、こちらの記事で引用したFacebookでの投稿につながりました。

 

santasantasan.hatenablog.com

 

 

【わたしは今の仕事通して、
 
たとえ連絡取ることがなくてもその人が生きてるだけで私もたくさんの刺激と気づきと学びをいただけて、
 
だからその人がその人でただ在ってくれるだけで、生きてくれてるだけで感謝だし、
(なんならおばあちゃんのように死んじゃっててもOKだし)
 
年上でも年下でも、相手がお客さんであってもわたしがお客さんであっても、わたしが親であっても相手が親であっても、
 
どんな立場の人でもどんな関係性の人でも魂レベルで対等な目線で、
同時に心から尊敬できる(部分がある)、
 
そんな人が周りにたくさん溢れてるとより幸せを感じるし、
ますますそういう人しかいない人生にしたいと思ってる❗】

 

これが、一番大切にしたい気持ちなんだと。

 

なのに、わたしはたぶん、その【今】の気持ちを、

【結婚式に出てくれた人たちとは、良い関係でい続けたい】

こっちの当時の気持ち…というよりは、なんだか響きの良い型(かた)みたいなものに、

無理やり沿わせよう、当てはめようとしていたんだなあ、と。

 

確かにそのときの気持ちは本当だったし、大切にできるならし続けられたらベストだろう。

 

でも、どちらかというと、

その当時掲げた気持ち(=今となっては、響きの良い道徳的な“型”みたいなもの)に拘泥して、

「そう在り続けなければならない(=なぜならそれが美しいから、正しそうだから、良い人そうだから)

 

って、かたくなにどこかでこだわって、その型に今の気持ちや在り方を添わせられない自分を責めてたんだなあと。

 

これってその卒業生たちにも、そして自分自身にも、

誰のためにもなってない、

超絶くだらない、

言ってしまえばクソみたいなこだわりですよね。汗

 

そして【今の自分(の気持ち)】を全然尊重していない。

こうなると本当に、なんのための誰のための人生?って話です。

 

そしてもっともっと自分を明らめていくと、結局はどこかで、

目が眩んだ自分を明らめたくなかったのかな、と思った。

 

何に目が眩んだって、

「好かれる」ということに対して。

 

これ、本当に最近気づいたんですが、そしてもちろん全員ではないのですが、

「真穂さん大好きです!」とか

「尊敬します!」とか、

そういうキラキラした眼差しとストレートな愛情(だと思っていたもの)を向けてきてくれる方のほうが、

実はずっとずっと、

本質的なことは少しも伝わってないんじゃないか…?

ということ。

 

ものすごくストレートな物言いをしてしまうと、

こういう方のほうが、おそらく、他の一般的な卒業生よりも、

わたしと直接接触したり、交流したり、やり取りしてる時間は圧倒的に多いんです。

プライベートな部分も含めて。

なのにそのわりに、なんか本質的なとこが全然伝わってないような…?という疑問が

やっと最近、頭をもたげるようになりました。

 (繰り返しますが全員ではないですよ!)

 

そして「好き」を表してくれることはやっぱり、

単純に嬉しいんですよね。

そうして慕ってくれてることが。

 

そして当たり前ですが素直にそれを愛だと思い有り難く受けとめていたのですが、

時にはジョーさんも含めて実際に会ったり言葉を交わすたびに、

「あれ?」という違和感が積み重なっていくことを

本当は感じてたはずなんです。わたし自身が。

 

それは、肝心なところ(本人が悩んでるというか進んでいないところ)の話になると、本当にやんわりですが

「そこはいいので」とシャッターが降りるような感じだったり、

「頭ではわかってるんですけどね〜」という感じの言葉を言われてそこで話が終わる)

 

なんだか全然自分を明らめていないような…?と…。

 

そういう姿勢を感じて、「あれっ??」って度々思っては、

ジョーさんにも(会ってみての印象を)聞いてみたりして、

その違和感はやっぱり一致するんですよね。

でもジョーさんはそういうとき、絶対にジャッジするような感じで言わないというか、「なんか頭で逃げちゃってる感じはしたけどね〜」とかを、サラッと淡々という。

「あれは犬ですね〜」みたいな感じとまったく同じような感じで、ただ見たまま感じたままを評価入れずに言ってくれるのでこれがまたいつもすごいと思う。ホントにフラット。

 

でもこの違和感を突き詰めると、なんというのかな、

 

「じゃあ、なんでわたしなんだろう??(=わたしのこと好きとか尊敬とか言ってくれるけど、何のどこが好きで、何のどこが尊敬なんだろう?)

 

というところに行き着いてしまう。

 

自分をトコトン明らかに見るところとか、向き合いたくないところから逃げないとか、

そういうところをわたしから学びたくて惹かれてくれてるのじゃないのなら(わたしといてそういう部分に向かう糧にしようとしないのなら)、

いったいわたしのどこの何に惹かれてくれてるのだろう…??と。

 

でも、そこを見たくないから違和感を無視していったんです。

 

だってそこを見つめていくと、

 

「あれ?その“大好き”、違うんじゃない?」

 

「その”尊敬”、違うんじゃない??」

 

ってなるから。

それを感じたくなくて、蓋したままお付き合いする。

 

でも時間が経つうちに、違和感が飽和しまくって、

いずれかのタイミングで、わたしなりの一石を投じました。

 

(つまり、「そこは触れないでください」というオーラを出してたところに(わたしなりの)直球を投げてみた。)

 

結果、

全員がアッサリ離れていきました。

 

 

 

 

…もう〜〜〜〜…

本当に、恥ずかしい。。。!!!

 

つまり最初から、「わたし全開=自分自身も、お客さんも、向き合いたくないところを向き合って一緒にほんとの自分を輝かせていこうよ!前進していこうよ!ということを大事にする姿勢」で向き合っていたら、

こんなにもアッサリ切れてしまう関係性をすごく大事にしていた自分自身に。

 

その「大好き」を、その「尊敬」を、

すっかり真に受けて、素直に喜んでいたわたし自身に。

 

後々、何かおかしいな??なんか、違くね??と何度も感じつつも、

明らかにしたくなくて気づかないふりをしていたわたし自身に。

(だって感じちゃったら、明らかにしちゃったら、見たくない事実が見えちゃうから。)

 

けど最終的に、その違和感が飽和して、

ずいぶん時間が経ってから直球を投げて、

アッサリ離れられてるわたし。

(つまり結局は、相手にとって最初からそれだけのわたしだったということ。)

 

もう、、、

 

バカ? (わたしのことね)

 

 

わたしは伝えたいこと、分かち合いたいことがあってこの仕事をしているけれど、

そこに初めて取り組もうすると過程はやっぱりちょっと、今までの自分を全否定するようで苦しいというのがあると思う。

 

だから、その苦しさや、やっぱりそれなりの勇気が必要なこと、そうはいっても孤独な道のりだなあって感じてしまう気持ちもわかるからこそ

(だってわたし自身が通ってきた道のりだもん)

 

少し先ゆく経験者として、でも魂では対等の、同じ生き方を目指す同志として、

わたしの今や経験や智慧やエネルギーがまるごと、

向かってゆく背中を少しでも支えたり押したりするなにかになればいいと思ってやってる。

自分の命を、そのために使ってほしいと思ってやってる。

 

なのに、まったくそこ、求めてません、て人を見抜けず、

馬鹿みたいに時間も気持ちもエネルギーも費やした自分。

いや、見抜けず、ではないな。見抜きたくなくてズルズルやってきた、です。。。

 

二度目ですがもう一度言う。

 

もう、本当に恥ずかしい…!!!!

 

 

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本当に、こんな気分…!!!

 

 

 でも、その恥ずかしさは、誰が悪いんじゃなくて、

かりそめの「大好き」や「尊敬」や好意がやっぱりそれでも嬉しくて、

そこに目が眩んだわたし自身が招いたことでしかない。。。

 

その恥ずかしさ、その絶望、

いつまでも直視しないから、

ダラダラ外(=その卒業生たち)に気持ちが行ってしまっていたこの半年間。

 

なんなら自分は人を大切にできないのかな…とか、

ちょっと正しいようで全然見当違いのほうに悩みはじめたりして。←これだとちょっと、良い人っぽそうな立ち位置から自分のことを見ていられるでしょ?絶望…!!

 

やっぱり明らめ不足なのです。

そうして明らめ不足なときは、大体、

こうしてものすごい”恥ずかしさ”があるから見れてない。

つまりそれはなんてこたない、自分の中の“やましさ”なのだ。

 

だから、前記事に書いたこの部分、

 

わたしはこの仕事を通して、

 

いったい何をしたいんだろう?

 

何を得たいんだろう??

 

 

こんなのの問いは、もう当たり前に決まってたんだと。

 

その人がその人に向き合ってもらうこと。そこから自分を生きる喜びをしってもらうこと。

そうしてこの与えられた命をどうか大切に輝かせてほしいということ。

もっともっと、この命を大切にしてほしい。

(そしたら勝手に人生なんてどうとでも良くなっていくから!マジで!!!)

 

それがわたしの願いであって、

そのスタートに立つこと、そしてその道を至らないなりにもそのときそのとき進んでいこうとする人であれば、

わたしは誰だって尊敬できるし、生きててくれるだけで嬉しいし、

誰だって(わたしでできることあるなら)力になりたいと思う。

 

もう対等な“仲間”です。

 

もうその時点で、わたしにとって“大切な人”です。

 

その姿勢があるのならば!

 

でも、その姿勢さえ持とうとしないで、自分が自分から逃げてしまっている人なら、

自分が自分の命(この人生)をないがしろに、ぞんざいに扱っている人ならば、

わたしはその人をやっぱり大事には思えなくなるだろうし、

相手にとってもわたしは必要な人ではないのだと。

 

だから、そもそもそこを許容できるようになる必要なんてなく、

ある意味で好んで、わたしの意志でそこを許容しないからこそ、

わたしはこの仕事したりわざわざブログにこんなに暑苦しく書いているんだと思う。

 

距離感の問題でも、向き合い方の問題でもなく、ましてやその未熟、成熟度関係なく、

その姿勢を持ち続けることをやめてしまった人を、

わたしは大切にすることはできないし育んではいけない。

どう考えても、結婚式に出てくれたかどうかよりも、ずっとずっと大切なことじゃん!笑

 

そしてそれは、ご縁のスタート時にはわからないから、

縁してくれる方は同じように大切にするし、

信じるベースでやっぱりスタートしたいし、

出し惜しみもしたくないんです。

 

そしてきっとまた、「大好き」とか「尊敬」の眼差しを向けられたら、

懲りずに素直に信じると思います。笑

けど、そこに自分が目をくらませないことはできるよね。

それはわたしがしっかり反省を生かしていけばいいことだと思うのです。

最初から疑いたくはないし、そんな関係はやっぱりとてもツマラナイと思うのだ。

 

そして永遠では無いかもしれないからこそ

そのときそのときの一瞬一瞬で、

自分なりの愛を放っていきたいな、と思うのです。

 

いつ終わりが来たとしてもできる限り、自分にとっての後悔のないように。

 

講座やコミュニティとかも、そういう気持ちでやっていきたいし、

そういう気持ちでお客さんにもいてもらえたらたぶんより受け取ってもらえるかなと。

「ずっと」という保証はお互いにどこにも無いのだから◎

 

 

人との出逢いはいつも「いただきます」に始まって、

そうしてすべてを糧に、学びにしていった先に、

どんなかたちで「ごちそうさま」を迎えるか。

 

それは相手によるところも多分にあるけれど、

たとえどんな相手であっても、どんな嫌な過去であっても、

美味しく「ごちそうさま」に変えていきたいと思う。

 

それは逆の立場でも一緒で、

「どう、いただかれたいか」?

これは常に自分なりの意思表示を示していきたいと思う。

それが「自分を生きる」ということなんだけれど。

本当の「自分を愛する」ということなんだけれど。

 

 

そんな風に自分の優先順位と在り方を見つめ直すことで、

この半年間続いた疑い案件に、

やっと自分なりの「ごちそうさま」を迎えられればいいなと、今はそのように思っています。笑

 

大変長くなりましたがわたしの恥ずかしい明らめ&絶望エピソード、

どなたかの明らめの少しでもヒントになれば嬉しいな、と思っています。

これにて、完!