「すみません、ただのオンナに戻ります」。

「ただそのままのわたし=ただのオンナ」に戻って生きる喜びとその日々を綴っています◎

生まれることも死ぬことも。命は衝撃的で、でもきっと、本来は分離のない世界。

3月前半のある日、その日もわたしとジョーさんはいつものようにランチを外で食べて、

スーパーでお夕食の買い物をして、

いつもの散歩道をのんびり、家に向かって歩いて帰ってました。

 

その日はまだまだ寒かったんだけど、鳥の鳴き声とか気持ち良くて、

わたしとジョーさんは橋の上から川を見下ろして、カモとかサギを探すのが好きなので、

(カモがお尻をフリフリしてたりすると、もうたまらなくHAPPYな気持ちになってしまう)

その日も歩きながら川を眺めて「あ、カモいるね〜〜」とか楽しく手をつないで話してた。

 

それで、そうやって何の気なしにいつもの川を見下ろしながら曲がり角に来たときに、

明らかに、

いつも眺めてるその風景にはない、

異質のものが目に留まって、

二人で思わず、足をとめました。

 

それは、いつもの平和で平凡な川べりで見かける、

カモやサギや鷽(うそ)や、何かのゴミではなくて

 

明らかに、

人の身体と思われるようなものが浮いていました。

 

わたしもジョーさんも、たぶん最初に気付いて直感で感じたことは、

「あれは人だ」

だったのだと思うのだけれど、

 

いつもの平凡で平和な風景の中で出くわしたその光景は

あまりにありえないことのように感じて、

 

「いや、まさかそんな、こんなところで。ありえないでしょ」

 

と、

しばらく(一瞬だったのかもしれないけど)二人で黙って、

そのあとに、ちょっと、

 

「あれ、なんかこわいね。なんか、人みたいに見えるよね」

 

って、なんか二人で引きつって笑い合って、

今思えば「ちがうよね、まさかね」って、二人で笑うことで安心したかったような気がします。

 

そこは観光ルートではけして無いけれど、

別に人通りの少ないところではなくて、

むしろ真上の橋にはビュンビュン車も通ってて、

わたしたち以外も犬の散歩をするおじさんやおばさんがちらほら通りかかって、

その人たちも、

「あれ?」って一瞬橋の下に目を留めるんだけど、

ちょっと気にしたあと、そのままみんないつものように通り過ぎてしまって。

 

わたしたちは、なんとなくやっぱり気になって

橋の反対側に行ってちがう場所からもう一度よく眺めてみたり、

どこから見てもやっぱりハッキリはしないんだけれど、

でもどうしてもそのまま通り過ぎてしまうことができなくて、

 

不思議なことに、ちょうど目の前に消防署がある場所だったので、

 

あとで笑い話になっても良いから、一応、消防署員さんに声をかけてみよう、ということにしました。

 

あとから振り返ると、もし、そこに消防署が無かったら、

わざわざ電話をかけてまで通報することは無かったかもしれません。

 

それくらい、見てそれと判別できなかったというよりも、

頭が

「そんなわけないだろ(まさか、こんなところで)」

と判断していたと思います。

 

だって、川もめちゃくちゃ浅い川で、

人通りがそれなりにあるすごく目立つ場所で、

さらに、両親が子どもの頃からのたぶん60数年間、

この地域でこの川でそんな事故があったとか、聞いたこと無い、と。

 

だから、ジョーさんと一緒に消防署のインターホンにピンポンして「ハイ」って返事をされたときは、

ちょっとこの人頭おかしいんじゃないかと思われるんではないかと思い

(あまりにありえないだろうっていう気持ちが先走って、自分でもそんなふうに感じてた)

「ちょっとすみません、ただの勘違いだと思うんですけど、川の橋の下になんだか人っぽいものが浮いてる気がして…絶対勘違いだと思うんですけど、すみません」

 

とかよくわからないしどろもどろなしゃべりをして、

 

でもプロってすごいなあと思ったのは、

「わかりました!すぐ行きますからね」と誠実に真面目に対応してくれた。

 

すぐに二人、消防士さんが走ってきてくれて、一緒に見に来てくれて、

じいっと眺める消防士さん二人に

「ごめんなさい、全然勘違いですよね。アハハ…」とか言ってたら、

すごく緊張した声で、

 

「いや、あれは…!」

 

と。

 

 

そこからはもう、本当に素早くて、

どんどん消防士さんたちが集まってきて、

警察の人も来て、

立入禁止のテープが周りに貼られて、

それを見て一般の人たちがワラワラと現れて、

そこから遺体(とおぼしきもの)を隠すためにブルーシートを何人もの消防士さん(だったか警察官さんだったか)が周りを囲んで。

 

ボーっとした頭で、

「ああ、こうやって亡くなった方であっても、全力でプライバシーを守ろうとしてくれているんだな、すごいな。」

って思ったのは覚えています。

 

わたしとジョーさんは第一発見者ということでそのままそこで待機して、

消防士さんと警察官さんそれぞれに話を聞かれて、

でも

「川を眺めながら歩いてたら人っぽいものが浮いてたのであわてて通報した」

以外の何も言えず、

 

事情聴取(?)が終わって帰って良いと言われた後も、

もしかしたらそれが人じゃないなら、とてもホッとするから、

ハッキリわかるまでここにいさせてほしい、とお願いしたら、

警察の方が快くOKを出してくれて、

 

そこから何分か後に、警察と消防の方が橋の下に降りて(階段が無いところなのでそれが大変そうだった)

最終的にそれが人の遺体と確認できたと教えてくれました。

 

地域柄なのか、本当に心ある警察官さんで、

「(遺体の様子を見ると)だいぶ(亡くなってから)時間が経っていて、

なので通報がもっと早ければなどと気にすることはけっして必要ないです」

と、

「むしろ通報するのに勇気がいたと思う、そのおかげでこうして発見できたので、

勇気を出して消防署に来てくださって本当にありがとうございました」

と、

そんなようなことを言ってくださいました。

 

その日はもう、ショックというよりもただただ衝撃で、そのまま家に帰って、

 

そしてその日、電話セッションがあったんです。

 

このブログでも度々紹介させていただいている、

ガンのステージ4から、職場復帰されるまでに回復されたMさん。

↓ 

santasantasan.hatenablog.com

 

そんなことがあって、セッションの開始時間を遅らせてもらったのですが、

その日はまだ、衝撃、、というだけで全然セッションできるな、と思って、

帰宅してすぐお電話かけた。

 

そしたら、Mさん、声を聞いただけでハッキリとわかったのは、

本当に元気になられていて。

 

以前お電話したときには、声もか細くて、しゃべるのもつらそうで、

お電話していてもじいっと耳に意識を集中して聞き取ろうとしていないと聞き取れないほどのかすかな声だったのが、

 

「真穂さーん!!」って、

本当に元気で明るくてハリのある声に戻っていて!

 

すっごいな、って、ものすごく感動したのです。

特に、亡くなった命に強く衝撃を受けた直後だったから、

同じ日に、

命を失うかもしれないほどの病気を経て、ここまで回復されて命輝いているMさんの声を聞けたことは、

わたし自身がものすごく救われた気がしました。

 

電話セッションがその日であったことも

(開始が遅れてしまうというご迷惑はおかけしてしまったのだけれど)

すごく意味があることのように感じました。

 

そうしてその日は、Mさんの存在にも救われて、

そのまま過ぎていったのですが、

 

翌日からジワジワと、どうしようもなく苦しい気持ちになってしまって。

 

それは、一言で言い表すなら

 

かわいそう

 

っていう気持ちだった。

 

亡くなられた方が、まだあの日、

すごく寒くて、その寒い中、冷たい水の中にずっと浸かっていたこと、

 

あの日、前日と前々日はすごい雨で、いつもは浅い川がものすごく増水していて、

流れも早くなっていて、

 

なのにそれでも、

あんなに人が通る橋の真下で、

しかも消防署が目の前っていう場所で、

石に上手く引っかかってそのまま海へと流れていかなかったことは、どうしても、

偶然ではなく、もう亡くなった方であっても、

「見つけてほしい」っていう意志がそこにあったのだとしか思えなくて。

 

それなのに、あれだけ人が通る橋の下にさらされて、

さらされてもなお、見つけてほしい、っていう気持ちであそこにいたのだろうに、

わたしたちが通報するまで、誰ひとりとしてそういった通報が無かったとのこと。

 

わたしたちが見てるときに、一緒に見下ろして、

何かを感じた人はいたと思うのに。

 

その人たちを責める気持ちではなくて、ただ、

寒かったろうな、少しでも早く見つけてほしくて、きっと、身体をさらしてもあの場所に留まることを望んだのだろうに、

それなのに誰も声をかけてくれなくて。

つらかったろうな、と。

 

真実が何かもわからないのに、ただの思い過ごしかもしれないのに、

なんだかものすごくそんな気持ちがして、

その方の気持ちみたいなものに、ものすごく

自分が飲まれてしまったんだと思います。

 

なんか、わたしは何も直接関係ないのに、勝手に気持ちがボロボロになり。

そのことにまた、恥ずかしさを感じたり。

 

遺体がこわかったとかじゃなく、

ただその「かわいそう」という気持ちだけが強くて、

 

実家の父と母にだけは電話をして泣きながら話を聞いてもらって、

「でも、亡くなった方は真穂たちに感謝してるよ」と、気持ちに寄り添って聞いてくれた母の存在も、

過去の仕事柄、冷静に落ち着いて受けとめてくれた父の存在も、本当に有難くて、

※わたしの父は数年前の定年に至るまで警察官として勤め上げました

 

ちょうど父とは、年が明けてすぐにケンカしてずっとそれを引きずってたのですが、

この出来事が起きる数日前にふと「申し訳なかったな」と気持ちが湧いてメールで詫びれたことも、

すごくタイミング的に完璧だったのだな、と感じたりもしました。

 

その数日後に、新聞と警察官さんのお話で、

その方が地元の高齢の方だったこと、

死後一ヶ月は経過していたこと、

事件性はないということ、

 

など知ることができました。

 

あんなに気持ちに(勝手に)受けたダメージも、日にちが経つとやっぱり癒えていって、

そうして、わたしはその出来事の少し前に二人目の子どもを出産したばかりの友人に会いに行って、

本当に些細な友人の一言にもんもんとしてしまい、

子どもを授かれていない自分を必要以上に友人たちと比較してしまう日々が続いていたのだけれど、

(このこともまた別記事で書きますね)

 

このことに遭遇して、

 

新しい命を授かれないどころか、命が失われる現場に遭遇するってどういうことだよ

 

不謹慎で自己中心的だったかもしれないけれど、

ちょっとまた全然違うところ=自分のこと から、

なんだかもう、なんだかな、という気持ちになってしまい。

 

でもそのことで、前記事に書いた

「わたしはスムーズにいかない。」

 

このことを、

受け入れるというか諦めがついたんです。

 

起こる出来事も、良いも悪いも、受け入れて生きていこう、って。

 

起きた出来事の衝撃が大きすぎて、

それまではどうしてもギュウ!って握りしめて手放せなかった執着みたいなものが、

衝撃で吹き飛ばされて気付いたら手からこぼれ落ちてた、とでもいうような。

 

でも本当に、そんな感じでした。

 

そうして、その方のご冥福をお祈りするとともに、

たとえその命が終わった姿であっても、出逢ってくれて、

自分を自分で縛っていた不要なことに気づかせ手放させてくれた、

そのことに感謝しよう、と

 

それがこのご縁からの学びだったとそのときの自分なりに気持ちの整理をつけました。

 

なのですが、逆算してみると、

このときにはすでに、

新しい命がお腹に宿っていたんですよね。

 

 

もうすっかり、何か自分の中では直近の妊娠は諦めて、気持ちがスッキリしていたとき、

それでも生理がなかなか来ないな?というとき、

まさか、という気持ちの中で、「もしかしたら」と思ったのは、体調の変化とかではなく、

このときのことが思い出されました。

 

まさか、があるなら、このときのことが関連しているようにしか思えない、と。

 

それは、よく聞きませんか?

 

一つの命が亡くなるときは、

一つの命が生まれるとき。

 

「生まれる」をどこからと定義するかは人それぞれだと思いますが、

命が宿った時点でわたしは「生まれた」といえるのではないかなと。

肉体の有無ではなく。

 

そうして、妊娠が発覚したときに、

すごく感じたことがありました。

 

命は、「生まれる」も「死ぬ」も、

そもそも分離が無い のだと。

 

 

 

 

別個の肉体を持っているわたしたちが、勝手に、

「あの命が亡くなって、あの命が生まれた」と「認識」しているだけで、

本来は命とは、

 

「あの命」とか、「この命」とかっていう

分離は、

そもそもないんだと。

 

分離も境界線もない、

 

もともと一つの命。

 

それが、それぞれ別個の肉体に宿っているから分離して見えるだけで、

命は本来、永遠に繋がって、連綿と続くものなのではないか?と。

 

わたしとジョーさんが発見した方の命が1つ失われて、

わたしとジョーさんの赤ちゃんという命が1つ生まれて、

プラスマイナスゼロ、なのではなくて、

 

ずーっと、1。

 

ブツ切れになっているものではなくて、繋がっている。

それが幾重にも枝分かれして、でも根っこはもともと一つ。

 

海の波とおんなじ。

波は生まれては消え、生まれては消えるけど、

海としてはずっと「在る」から。

 

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なんの確認も証明もできませんが、そうだ、と感じた時、

 

あんなに感じていた、亡くなった方への「かわいそう」という気持ちが

それは違うんだ、と思ったんです。

 

そうじゃなくて、

本来、どの命も、どんなに長く生きた命も、どんなに短くしか生きられなかった命も、

天寿を全うした人も、病気や事故で思いがけず亡くなった方も。

 

誰もかわいそうじゃなく、

連綿と続く命がかたちを変えて表れているだけ。

 

バトンの渡し合い。

 

ずーっと“1”の中での、生かし合い。

 

それだけなんだ!と。

 

上手く説明できないけれど、頭でというより感覚で、

それが答えだ、と感じました。

 

そのときに、数日前に書いた不思議なおじさん・S氏の言葉も、妙に腑に落ちた。

 

santasantasan.hatenablog.com

 

そして、わたしがこうしてまだ、何も安心できない状況で妊娠のことを書くのも。

この命がこのわたしの体内でこのまま育つかはわからなくても、

もし万が一、そうならなかったとしても。

 

そのときは絶対に悲しいけれど、

でもそれは終わりじゃなくて、

 

また必ず、誰かの肉体を借りて生まれて繋がっていく。

 

それは、実際の命ということだけじゃなくても、

このブログを読んでくれている人たちの心に何かの気づきを与えることで、

生かされる命でもあるかもしれない。

 

肉体=命って、誰が決めたの?? と。

 

もう、本当に何も関係ないんだと。

誰の命(誰の赤ちゃん)でさえもないんだと。

 

上手く言葉に説明できないのだけれど、

自分の中ではすべてが繋がった感じがして、

そうして今思うのは、あの亡くなった方に限らず、

かわいそうな人は一人もいないんだってこと。

 

これが本当に附に落ちたこと。

 

 

だから、妊娠のことを書いた時、

お祝いの言葉とともに、

「どうか無事に出産できますように!」と言ってくださった方もたくさんいて、

それは本当に愛と祈りの気持ちでしか無く、

100%感謝しかないのですが◎

 

でも、今感じてるのは、そこが全てではない、ということ。

今、生きてる(少なくともお腹の中ではどうなってるかわからなくても、今のわたしの記憶=意識の中で)ってこと。

 

それだけで、

ハイ、今すでにこの瞬間から一切問題ナシ!

未来、関係ナシ!!

めでたしめでたし!

なのだと^^

コレです♪

 

santasantasan.hatenablog.com

 

肉体として亡くなった命と、

肉体として生まれてこようとしている命と、

ふたつで一つの命に教えられたこと。

 

正しいのかなんて知らんけど、ただわたしが感じたこと。

 

それを、大切に抱えて生きていきたい◎

今は、単純にそう思っています◎