「すみません、ただのオンナに戻ります」。

良い子を卒業して、「ただそのままの自分(ただのオンナな自分)」を大切に、がんばらずに生きる方法をお伝えしてます◎

「痛み」を感じることを許せる悦び。

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いつもの川沿いの散歩道、

いよいよ桜が開花してきました^^

 

でもまだまだ六分咲きくらい??

 

先日の土曜日からこの松川沿いのライトアップも始まったみたいで、

満開になったら夜もぜひジョーさんと一緒に散歩に出かけたいです^^

 

そして春分の日(お彼岸)の昨日は母が泊まりに来ていて、

一緒に天城のほう(あの、「あまぎ〜〜〜ごお〜〜え〜〜〜♪」の歌の天城です。笑)の祖父母のお墓にお参りするはずが、

積雪のためまさかの運休!!

 

 

でもそのおかげで部屋にこもるしかなく、

じっくり自分を見つめることのできる機会を得ることができました。

 

そしてこのときに感じたこと、

最近自分の中で感じている変化なのですが、

心がとても柔らかくなったように感じます。

 

ちょうど先日こんな記事を書きましたが

 

santasantasan.hatenablog.com

 

この記事で紹介させていただいたAさんが、その後、こんなお返事をくれました。

私、真穂さんに

「つらかっただろうな悲しかっただろうな」って書いてもらったことにちょっと衝撃をうけて、

言葉にできなくてでもなんとか言葉にしたいと思ってました。

 

今も言葉になりませんが、完全に私がしてたことは自分の責任でばかすぎて、

(中略)

どこをどう切り取っても「ばかおんなーー!!」と責められるしかないと。

 

それをばかおんな以外の言葉を持ってもらって、

同情してほしいとかなぐさめてほしいとか、そんな気持ちからじゃなくて、

なんだか安心して泣けて、自分自身すら味方じゃなかった(いや、誰も敵じゃない)ことが完全に成仏できたなー、と。

 

もっともっと深く自分に切り込んで理不尽でも本当に自分がかけてほしい言葉をさがしていきたいな、と思いました。

それを感じきったらゴムは戻ってくるからという安心感と一緒に。

 

このお返事を拝見して、

わたしも、自分で少し驚いたというか、不思議な感覚がしたんです。

 

それは、上記のAさんの、記事で紹介させていただいた体験談を伺ったときに、

わたしは確かに胸が痛んで、

それは書いてある通り、ただ、

「つらかっただろうな、悲しかっただろうな」

っていう気持ちでした。

 

この感覚をなんというのか、

同情、、、とは違うと思うんですけど、

どちらかというと共感…というのか。

 

傷の舐めあいみたいな、

「それ、つらいよね〜〜わかる〜〜〜」みたいな感じのそれではなくて、

痛みをただ一緒に感じた、

そんな感じ。

 

そしてわたしは長いこと、そんなような類の”人の痛みを一緒に感じること”を

蓋してきたように思います。

 

ずっとそれを無意識に避けてきた。

 

それはきっと、痛みを一緒に感じてしまったら、

一緒にその悲しみに飲み込まれてしまいそうで怖かったから。

 

なぜだろうな、と振り返ったときに、

昔のことが甦ってきて、これかな、と思うことがありました。

 

わたしは、このブログでもちょこちょこと書いてきているとおり、

かつて長く勤めていた職場で25〜26歳の頃に、

学生インターンや自分よりも若い後輩の指導や育成の仕事をしてきました。

 

そこで結局、働きすぎや代表の男性のパワハラみたいなものに

(そんなパワハラレベルじゃなかったんですけど、今思うと。。。)

自分が潰れかけて 、最終的に職場を離れたわけなのですが、

 

そうなるまでの間に、先に、

同じようにその代表からのプレッシャーなどから、

インターンの子や若い後輩の子たちがどんどん潰れていくというか、

 

精神的に病んでしまったり、

生理が来なくなってしまったり、

落ち着いていたアトピーが全身に巡ってかゆみが止まらなくなってしまった、

そんな相談を受けたり、

 

また、別のところでは信頼してくれていた後輩から、

望まない妊娠をして、堕胎しました、という報告を受けたり、

 

そういう、今考えればどうしたっておかしなことが

なんだか当たり前にあって、いつもそういったことにわたしは衝撃を受けて、

心を痛めて、

ただ一緒に泣くことしかできなくてですね。

 

今もこういう仕事をしていて、

コミュニティのメンバーさんはじめ出逢ってくれるお客さんから

信頼されたり好かれたり頼りにされたりするけれど、

その頃もやっぱりそういう傾向があって、

後輩や学生たちからよく信頼されて好かれていたからこそ、

そういう深い胸のうちを打ち明けてもらうことができたのだと思います。

 

でもその頃、そうはいってもわたしもまだ20代なかばなので、

20代なかばの女の子が仕事と割り切ってそういった話をしっかりと受け止める(もしくは受け流す)のにはあまりにまだ当時は若かったというか、

だから実際、話を聞いても良い言葉も投げられない上に何もできなくて、

ただ最後まで自分よりも更に若い子たちが潰れてくのを見てるしかできず、

 

そんな毎日は何か、見えない何かで日々、

自分が削れていくような疲弊した感覚がいつもありました。

 

ここ数年、この当時のことを思い出したことはほとんど無くて、

あったとしても

「あの頃有り得なかったよね!」っていうくらい。

 

「本当に、あれだけ問題ばっかり引き寄せてたわたし、どれだけダメダメな生き方してたんだろ!」

って思うくらい。

 

だから、お客さんに対しても、気持ちに寄り添うというよりは、

「それでこれからどうする?」っていうような、

厳しさや、具体的な方向を指し示すことを中心にやってきたというか、

痛みを一緒に感じるっていう癒やしみたいなことは、

わたしの仕事じゃないな、向いてないな、と。

 

勝手にずっとそう感じて、この仕事を始めてからずっと疑いなくそのスタンスでいました。

 

でも、何度も書いてますが先日の3月初めに本当に久しぶりに、

直接自分や自分の身近な人に何かがあったわけではなくても、

ショックの大きな出来事を体験して、

 

そのことをきっかけに、何か、最近まで蓋をしてきた

(有り難いことにそう感じる出来事がここ数年ずっと無かったということでもありますが…)

 

「ただ、悲しい」

「ただ、つらい」

 

っていう気持ちを思い出したんだと思います。

 

そしてたとえそれを感じても、

だからといってもう、わたしも年を重ねて、

完全にそこに飲まれてしまうことにはならないこと。

誰かの痛みを自分の中に入れたとしても、

自分が削り取られることにはならないということ。

 

それまでのわたしは、過去経験した「上手に向き合い、昇華することのできなかった」経験ゆえに、

 

痛みを一緒になって感じることは、

自分を削り取ってしまう出来事、

自分自身も、話を聞かせてもらった当人(お客さん)もどちらにとっても、

前を向いて未来へ進んでいく力を削ぐことなんだと、

だから誰のためにもならない行為なのだと感じていました。

 

そうして、人(=わたし)に話すことを通じて、その痛みは、

その人が痛みをわたしに預けてしまうことになって、

本人の弱さを引き出すことになるとも感じていました。

 

「痛み」は「重さ」で、

その「重さ」をわたしが受け持つことで相手がラクになるのなら、

それも違うことだ、と思っていました。

 

人の弱さを助長することになるんじゃないか?と感じていました。

 

だからどこかで無意識に、

「痛み」を「相手にしない(見ない)」っていう選択をずっとして今の仕事をしていたんだと思います。

 

でも、3月のあの前半に、それはショックな出来事だったけれど、

「痛み」っていうものを自分の中からハッキリと思い出して、向き合うことで、

過去のわたしに対しても、捉え方が変わったのだと思います。

 

あのとき確かにわたしは、

そんなにつらい職場ならさっさと辞めればよかったし、

どう考えてもおかしいことばかり起きる状況なのに、それを疑うことをしなかった、

そんな「取れる選択があったのに、その選択さえ怖くてできなくて、

選択肢が無数にあることにどこかで気づかないふりをしたわたし」は、

「本当にバカだった」のだと思う。

 

でも「本当にバカだった」かもしれないけど、でも、

その頃たしかに、

「つらかった」し、「悲しかった」し、「苦しかった」。

 

それを、「本当にバカだったから(自分の責任だったから)」ということで、

その悲しさやつらさ自体をも否定していたんだな、と気づきました。

 

「自分で選択しないで、自分の責任でそこに居続けることを選んだバカな自分には、

悲しかった権利なんかそもそも無い」

とでも言わんばかりに。。。

 

でもそれとこれは別のことで、

ちゃんと、あの頃がんばっていた自分、

つらかった、悲しかった自分を、

 

本当の意味でやっと受け入れることができたんだと思います。

受け入れて、許して、心を開くことができた。

 過去の自分がバカだと思わないから、誰かの経験もバカだとは思わない。

だから、人の「痛み」も、抵抗なく一緒に感じることができるようになった気がします。

 

そしてそれは、自分の心を丸ごと持って行かれるような「感じ方」ではなくて、

心が切り裂かれそうな、感情が荒ぶるようなつらい「感じ方」ではなくて、

 

ただ、一緒にその気持ちを「感じ取る」。

 

まだ上手く、言葉にどう表現していいのかわからないのですが、

20代後半の、かつてのわたしがそれしかしようの無かった「痛み入るかたち」とは、

まったく違ったかたちの「感じ方」が

 

できるのだと気づきました。

 

そしてそれは相手のことも、わたし自身のことも、

何もマイナスにしない。

 

むしろ、きちんと癒やされることができれば、それは人にとって、

次に進む大きな糧になるんだと。

 

上手く言えないけれど、

ずっと、厳しさがわたしのスタイルだと思っていたけれど、それもこれからもしっかりとありつつ。

 

でも、少し広がった自分自身の器を感じながら、

痛みを一緒に感じること。

寄り添う…という言葉が適切かはわかりませんが、

痛みをジャマ者扱いしない、

むしろ大切に包むような、

そんな在り方も。

 

これからはできていけたらいいなと、

むしろ今、そうなってきているなと。

 

そしてそれが、伊豆でやるということの、

ベースとしてとても必要になるのじゃないかなと。

 

女性としての、受け入れる力。

 

創り上げていく、そういう男性的なエネルギーのあふれる東京とは違って、

この土地はきっと、

そういうところだから。

 

上手く言えないのですが(自分の心の変化を人に伝わるかたちで綴るって、本当に難しい…支離滅裂でしたらごめんなさい><)、

そんな宇宙的新年のわたしなりの幕開けかな、と思っています。

 

それでは、今日はそんなところで◎

 

<募集中◎>

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