「すみません、ただのオンナに戻ります」。

「ただそのままのわたし=ただのオンナ」に戻って生きる喜びとその日々を綴っています◎

この週末のことと今の想い。

本日、いつもより早くに目が覚めて、

今日の伊豆は晴天で暖かく、どんな気持ちをも包み込んでくれるような陽気で

 

今なら、まとまりきらない気持ちを整理しながら、

自分に刻みつけることを、

ブログをこうして書くことでできるんじゃないかな、と思いPCを開いてみました。

 

まずはじめに伊豆での60日間講座の募集開始の記事がアップできておらずすみません。

 

2日前にアップした記事の続きを下書き保存していて、

土曜の昼過ぎ、

いつもの ジョーさんと昼食→買い物→お散歩 というコースを辿って家についた後にアップする予定だったのですが、

このお散歩中に夫婦で思いもよらないことに遭遇しました。

 

それは、ひとによってはびっくりだね!で済むくらいのものなのかもしれないけれど、

わたしにとってはそれだけで済まなくて、

人生で初めての経験で、

とても衝撃的で、

そのときはただ呆然とするしか無かったのですが、

後からジワジワとショックが大きくなっていってしまい、

 

気持ちがそこに囚われて動けなくなってしまうような、

とにかくわたしにとってはショックの強い出来事でした。

 

念のためお伝えすると、わたし自身や、わたしの身内やわたしの大切な人たちに何か不幸があったわけではなく、

なので逆に、そうではないのにこんなにショックを受けている自分はおかしいのかな、と、

 

話を聞いてくれた両親や、一緒に居合わせたジョーさんには

「真穂にきっと感謝しているよ。良いことをしたんだよ。」

と、皆がそれぞれ同じ温かい言葉をかけてくれて、

 

頭では自分でもそうだなと思うのだけれど、でも、

もう少し早く動いてあげれたら良かったんじゃないか、等々、

それでも何も結果は変わらないのに、

なんか無駄に自分を責めているなと後から気がついたり、

でもその気持ちを取り除くことができなかったり。

 

そういう、いろんな想いがぐちゃーっとした中でぼんやりどこかで考えていたのはやっぱり、

 

「このタイミング、こういうことに偶然のように居合わせたのは、

どんなことを教えてくれるためだったんだろう」

 

といういつものやつでした。

 

そういえば、先日生きていれば誕生日を迎えたはずの祖父が亡くなったときも、

そんなことをブログに書いていたなあ。

 

santasantasan.hatenablog.com

 

その日は、どちらかというと自分を責めてしまうほうにしかこの言葉を向けられなくて、

(たとえばわたしに何か今してることはダメな流れだ、とかって言われてるんじゃないか、バチが当たったんじゃないか、とか。)

 

でも気持ちがどうしてもそう思ってしまうときもいつも、

頭の片隅にはいつも、

でも神様?は絶対に愛しか送ってない、という確信があります。

 

まして、今回のことは”命”を通じた出来事だったので、

※しつこいですが、わたしやわたしの身近な人に何かあったわけではありませんのでご心配なくです

 

人の命を使って、というか通して、

バチを当てるとか、そんなくだらないことを神様はしないだろう、と思いました。

 

その日は、ショックや、なぜかわからないけど悲しみのほうが大きくて、

何を教えてくれてるのかな、なんて考える余裕は無かったけれど、

ジョーさんといろいろ話をして、

命って、自分のことだけじゃないね。と。

 

生きていることは、わたしたちも気づかないうちに、

本当にたくさんの人たちの存在や人生と交錯していて、影響を与えてる。(与えられてもいる。)

 

同じように、”死”も、

自分のことだけじゃない。

 

たとえ見ず知らずの赤の他人であっても、

ものすごく、いろんな人の存在や人生に影響を与える。

 

人とかかわらないように生きていこうとか、

どんなにがんばっても、

必ず、どうしたって、交錯してしまう。

 

それがたとえば病気であっても、

事故であっても、そうではないたぐいのものだったとしても、

一人で誰にも迷惑かけずに命を終えることのできる人なんていない。

 

逆に、生きている間、どんなに人と関わりなく生きているような人も、

命が終わったときには、

いろんな人の仕事や人生や存在が関わってこざるを得ない。

 

それが良い悪いじゃなくて、だから生きましょうとかじゃなくて、

だから何が言いたいとかじゃなくて、

ただそうなんだってことを知りました。

 

頭で考えれば当たり前のことだけど、

わたしはそれをきちんとはわかっていなかったと思います。

 

それで、奇しくもと言うかなんというか、

翌日は東日本大震災から7年の日で、

ランチに入ったお店で黙祷を迎えました。

 

そこで感じたのは、

わたしごときの経験でも、大きなショックを伴ったのに、

それこそ何千人という人が亡くなる経験、

そしてその中には身内や身近な大切な人もいたりという状況は、

どれだけ人の心や人生に大きな影響を与えたんだろうかということでした。

 

実際に被災した人たちだけじゃなくて、その身内や、友人や、救助に関わった人たちや…

 

たぶん、その幾千もの命の終わりが生きてる幾千幾万もの想像を越えた数の人たちの人生に交錯しているはずなんですよね。

 

これも、考えたら、いや考えなくても当たり前過ぎることで、

書いていて何今更言ってんの??って感じで恥ずかしいことだなと思うのですが、

でもやっぱり、このことも、

わたしはちゃんとわかっていなかったんだと。

 

今でもちゃんとわかっていないと思うけど、

でももっと、もっとちゃんとわかっていなかったと思うのです。

 

それで、ランチと買い物をして、家に帰宅して、夕飯作っていて、

だんだんその大きな大きなことが、

わたしの足元の人生にまで細く小さく小さく噛み砕かれていって感じたのは、

きっとここなんだと思いました。

 

わたしがきっと、今回のことで教わったこと。

 

なんにもわかれないことを、ほとんどわかれていなかった、ってことだな、と感じたんです。

 

上手く説明できるかわからないんですけど、ちょうどコミュニティのメンバーさんがこんな投稿をしてくれて、まだお返事もしてないのにあれですが…

 

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以前のわたしは、

 

・子供の頃、重い病気だった姉ばかり優先されて、わたしは親から大事にされていなかった、

とか、

・自分も、あとから腎臓の病気になったけど、そのときも、

姉よりは重い病気じゃないから我慢してとか、結局かえって傷ついた、

とか、

・これまた姉が起こしたトラブルがきっかけになって、一番行きたかった就職先に行けなかった、とか、

 

いろんなことを、姉や親を恨んで、自分は被害者で…って、

この世界に対してわたしはいつも無力で、

可哀想で、わたしの人生は私以外の誰かのせいでめちゃくちゃになって…って、

 

そういう立場の自分を疑わなかった。

いつも他人のせいにして、誰かのせいにして、過去のせいにして。

 

だけどその自分を疑って、

「わたしの人生は全てわたしの責任」っていうところに初めて立ち返って、

このブログを書き始めて。

 

そのことで、わたしはものすごく自分に厳しくもなったし、

だから、ここに書いてくれたように

 

「この人キラキラケーキの写真と一緒に、なんかすごいエグいこと書いてない???」

「こんなピンク文字で、めっちゃ胸をえぐってくるな!?」

 

みたいなインパクト(?)を、読んでくれている人に与えられたのかもしれません。

 

そしてだから、自分が自分に言い訳せずにやってきたことだからこそ、

これまで、

虐待にあっていた人や、

相当厳しい家庭環境に育った人や、

重いガンで闘病している人、

 

つまり、ふつうであったら、

「これはさすがにあなたの責任ではないし、あなたは被害者だ」って言ってもらえそうな方たちまで、

何かをブログで感じてくれて、会いにきてくれて、

 

「やっぱり自分の人生自分次第だ。」

 

って気付いてくれて、

 

「そこに気付けて良かった」

 

って、感謝をしてくれて。

※虐待にあったことや病気になったことが「自分の責任(自分のせい)」ということではありません。その過去があっても、現在(いま)は選んでいけるでしょう?というようなことです。

 

まずは、自分の「心」が、そうさせていないか?そういう現実(いま)を作っていないか?と、

被害者みたいな、世界に対して無力な存在かのように甘んじてしまわず、

まず自分に疑問を持って、自分と向き合ってみて欲しい。とことん。

 

もちろんそれが全てではないけれど、でも、

そういう姿勢で生きるだけで、人生が全然変わってくるよ!と。

 

わたしが伝えたい事の基本は、

今もこれからもきっと変わらないです。

 

だから、逃げてしまう人には厳しいのもきっと変わらない。

 

でも、なんというのでしょうかね、その、

「もちろんそれが全てではない(自分次第ではない部分も確かにある)」ことを、

わたしは頭でしっかりわかっているつもりで、やっぱり、

わかっていなかったんだと思うんです。

 

こういう経験をしてみて初めて、

「わかっているつもりでしかなかったことを、わかっていなかったのだと、わかった」

というような。

 

それを、わかるときが来たんだなってこと。

 

わかれないこともたくさんあるのだということをわかるとき、です。

 

それはつまり、自分の器を大きくする必要があるときが来たんだと感じたんです。

 

 

今までのわたしはこれできっと良かったのだし、

今までのわたしと縁してくれた方も、今までのわたしの人生の次元においても、

「これで良かった」んだと思うのです。

 

やることも姿勢も、ましてや日々の生活も、

きっと何も変わらない。

 

でも、目には見えないその器は、

大きくなる(する)とき。

 

 

今回の出来事は、というかその出来事に遭遇させてもらったこと、

わたしというひとつの人生を、同じように神様から対等に与えてもらった

貴重なひとつの命とひとつの人生に交錯させてもらったことは、

 

もっと大きくなりなさい。

 

そういうメッセージだと、感じました。

 

 

今日はいったん、ここまで。

講座の募集は、申し訳ありませんが日をあらためて、もう少しだけ気持ちを整理してから行いたいと思います。

コミュニティの投稿等のお返事も、もう少々お時間ください。

それでは、今日も良い一日をお過ごしください◎