「すみません、ただのオンナに戻ります」。

良い子を卒業して、「ただそのままの自分(ただのオンナな自分)」を大切に、がんばらずに生きる方法をお伝えしてます◎

自分と世界との繋がり方。認識・視点のアップデート。

一昨日の記事の続きも昨日の記事の続きも書けていないままですが、

今日ちょっと嬉しいことがあったので、

それを先に書きます〜!どんどんごちゃまぜのカオスブログになっててごめんなさい〜^^;

 

 

このブログをずっと読んでくださってる方はご存知の通り、

わたしは去年の8月末から父親の生まれ育った伊豆の一軒家にジョーさんと夫婦で住んでいるわけなのですが、

母の実家(生家)も、ここから歩いて5分くらいのとこにあるんです。

 

父方も母方も、もうわたしの祖父母はどちらも他界してるので、

つまりその、ここから歩いて5分ほどの母方の実家も、空き家になってます。

 

なので売るなり壊すなりしなくちゃいけないのですが、

まだまだ片付けなくちゃいけないモノがかなり多いらしく!

 

そしていろいろもろもろ事情が重なり、その片付けを、

三きょうだいいる中で特に

わたしの母と父とがほぼ担っている状態で、

 

これについては母がずっと悩んでいて、それで父と母がケンカになったり

あんたたちがケンカしてどうすんのって話なんですが…涙

 

更には今年は新年早々、そのケンカのとばっちりをわたしまで受けることになり

更にそれでわたしが泣きわめいて、ジョーさんがそれをなだめるとばっちりを受けるというハメに…涙

 

まあもろもろ、特に母の中に、

それぞれの立場から相手に求める気持ちや、自分のがんばりを主張したい気持ち、

相手を責めたい感情などなどがもうぐっちゃぐちゃになってて、

 

なんかここ数年、このブログを始めた頃は、ちょうど母親が祖父母の介護をしていて、

そんなことを書いたりしてましたが、

祖父母が亡くなった今も、母の中では

そんな(気持ちの)問題?が

起きては落ち着き、起きては落ち着き…を繰り返してる感じなんですよね。

 

これって、家がまだあるから仕方ないとかそういう問題じゃ、本当は無いと思うんですけど。

 

 

それで、母親がそういうとき(なんか悩んでたりいろいろ問題の渦中にいるとき)って、

”娘”って、

けっして自分もその渦中にいるわけではないのに、自分も、

気持ち的に巻き込まれちゃったりすることはありませんか?

 

たとえば、何か悩みを抱えてる母親がいて、

電話でそのグチや悩みを聞くことで、自分まで気持ちがそこに囚われちゃったりとか、

(たとえば一緒になって気持ちが落ち込んじゃうとか、お母さんがそんな状況なのに自分が楽しいことしてちゃいけない、と感じちゃったりとか?)

 

もしくは、

 

母親がかわいそう!(なんとかしてあげたい)って思うあまり、

大好きだったおじさんおばさんまで嫌な人に見えてきたりとか、

 

もしくは、

 

母親の嫌なところが逆に見えてきて、

「どうしてこういう風にしないんだろう?(こういう風に考えないんだろう?)」

って、ジャッジしたい気持ちにかられちゃったりとか。

(そしてそのあと、ジャッジする気持ちをもった自分に罪悪感にかられる、みたいな。。。)

 

”母親”っていう存在の世界観、価値観、人への目線(視点)に、

自分も一緒に飲まれちゃう感じといいますか。

 

わたしだけですかねー?汗

 

でも、それだけ、”娘”にとって、”母親”の存在って大きいのじゃないかなと思うんです。

たとえそれが、”娘”が、いくつになっても。

 

もしかしたら、すでに母親が亡くなっていたとしても、

その母親の持つ”世界観・価値観・常識”に、

無意識でもがっちりと、未だに縛られている人も

少なくないんじゃないかな?って思ったりします。

 

そしてそれがたぶん、「設定」みたいなもののベースになっているのだとも、思われます◎

 

 

それで我が家の話に戻りますが、

そんな感じでわたしが今、一番、母の実家の近くに住んでるっていうこともあり、

先日の新年会のときに、燃えるゴミの一部をわたしが今の家で預かって、

指定のゴミ袋に入れ替えてちょいちょいゴミ出ししてほしい、みたいなことになったのです。

 

で、今日、けっこうまとめてゴミ出ししたんですが、

なんか中にペットボトルとか入ってて、

 

おい!(捨てるのはいいけど分別くらいはちゃんとしておいてくれ!)

 

と思い、

母とおじさんおばさん(母のきょうだい)にメールしといたんです。

 

「これからもこうやって、わたしがゴミ出しするようなこともあるかもだから、

分別だけはちゃんとしておいてね」

って。

 

ただそれだけのことなんですけど、

メールを送信したあと、

ちょっと不思議な感覚になって。

 

そこには、

なんで孫世代のわたしがこんなことまでしなくちゃいけないの!っていう気持ちも無いし、

だからといって、

孫だし近くに住んでるしなんでもするから言ってね!って、褒められたくて良い子を演じたいわけでもないし、

これやっといたよ!感謝してよね!って主張したいわけでもないし、

わたしが動くことで、母親の分を上げたいわけでもないし、

 

なんかこう、ほんとに、

ただ、わたしの思ったことを伝えただけなんですよね。

 

それでそれって、

戦わず、巻き込まれず、でも接点は持つことはできる。

 

接点を持ちながら、交流しながら

自分の世界も相手の世界もそのままで在っていいっていうこと、

それは両立するんだ、って

なんか”わかった”感覚だったんですね。

 

 

それは、わたしは手伝わない!何もしない!関わりたくない!って

その世界をまるごと拒絶してしまう姿勢じゃなくて。

 

逆に母親や、おじさんやおばさんが、誰かが困っているからと、

自らすすんで、その中に巻き込まれに入ってしまうという姿勢でもなくて。

 

もしくは誰かや状態を、何か、”自分の思う良いと思う結果”に導くために、

そのようにコントロールするために、

外側から、言葉や行動で介入したりする姿勢でもなくて。

 

巻き込まれるでもなく、

巻き込まれないようにと警戒し、力むのでもなく、

逆に外側からコントロール(支配)しようとするのでもなく、

 

しかし同時に、別の世界と別の世界とを、

どちらかの均衡を崩さず、どちらかに引っ張り込むこともなく、 

関わり合うこと、交流し合うこと、接点を持ち合うことは

できる!ってことなんだと!

 

 

これすなわち、

世界との付き合い方・向き合い方の本質なのだと。

親戚との付き合い方・向き合い方の話のようで。笑

 

 

発端は、どこにでもありふれた親との関わり方、親戚関係のことのようであって、

しかし”自分”がここに在って、あとは外の世界、人というのは全て一緒だから、

もう、このときに「あれ?これって…」って感じた感覚から、

全てが繋がった感じがしたんです。

 

あ、これもだ。それもだ。

みんな一緒なんだ。そうなんだ!!

 

って。

 

ものすごく、自分が今まで見ていたところとはまったく別の角度から、

一筋の光がサンサンと、最初からずっと注がれていたことに”今”気付いたような、

とにかく、自分の中では、ものすごい発見だったんですよね。

 

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それで、自分のその観点がガラッと変わったときに、もう、

それが瞬間で母親にも伝わったのだなあと、感じたんです。

 

母から来たメールの返信に、こんなことが書いてありました。

 

お父さんとのことも心配かけましたが、

少しずつですが自分の思ってることを伝えたり

二人で共有できる時間を増やしていこうと思います。

 

 

母は母なりに、母の世界から、外の世界(人・事象)をジャッジしたり、

否定したり、自分のほうに寄せる(わかってほしい、わかってくれないという心でのコントロール欲求みたいなもの)を手放して、

前に進もうとしているんだ、って感じました。

 

それでそれ、わたしがわたしの中のそれを手放したからこそ、

この”今”で、その母に出逢えたのだと思うのですよね。

「わたしが母を変えたやった!!」ってことではまったくないですよ!笑

 

そう思うと、やっぱり、

悩んで自分にこもってしまうかつての母を必要としていたのはわたし自身だったし、

やっぱり世界は自分が創り上げているなあと。

そしてそれに気付いたときに、

その「今まで必要だった世界」って

自ずから然りで、必ずや”解体”されていくんじゃないかな、って思っています。

 

そしてそんな観点に、目線だけでも、少しだけでも「そんなこともあるのかな」って目線を向けたら、

やっぱりものすごく全てに解き放たれる女性が、世の中にはたくさんいるとも思いました。

それは前述した、母親との(心の)しがらみ一つとっても。

 

きっと、全然違う世界を、その人らしくのびのびと受け止めることができるんじゃないかな、と。

 

まだ、”言葉”で、今回感じ取ることが感覚を表現することは難しいと感じていて、

記事としてはとても拙い、わかりにくい記事になってしまったかもしれませんが、

自身の備忘録としてこれは残しておきたいな、と思いました◎

 

また自分の中でうけとめ、自分の中に落としていきたいなって思います。

 

それでは、また!