「すみません、ただのオンナに戻ります」。

良い子を卒業して、「ただそのままの自分(ただのオンナな自分)」を大切に、がんばらずに生きる方法をお伝えしてます◎

ハウツー、方法論という上澄みじゃない、その奥の財を受け取ろう◎

今日は昨日の記事の続きを書く予定だったのですが、

今日、コミュニティのメンバーさんに対してしたコメントを、

ここでも載せておきたいな、と思って、

それを一部中略しつつ、そのまま引用したいと思います。

 

コメントのやり取りは、先日の一連の鏡張りの世界の記事に関して

 

santasantasan.hatenablog.com

 

santasantasan.hatenablog.com

 

santasantasan.hatenablog.com

 

「鏡張りの世界に自分がいる」ということに気がついたけれど、

どう抜け出したらいいのか?という旨のコミュニティメンバーさん(Eさんとします◎)のご質問に、

わたしが

「俯瞰して自分を見て、(こんな世界で自分ばっかりになってるのが)本当にくだらない…!!って思えた時に、やめよう!ってなる!(わたしは!)」

という旨のコメントをお返事したのですが、

 

その【俯瞰して自分を見る】ということに対しての、

補足として以下のコメントを再度、しました。

 

あくまで、わたしがわたしと向き合ってきた中で身につけたやり方、考え方ではありますが、

参考にしてもらえらば嬉しいです。

 

「俯瞰して観察して見る」っていうのはある意味、つまり、

くだらないことで遊んでいる自分を冷徹なまでに直視する覚悟、みたいなことです。

 

本当にやろうとしたら(※俯瞰して見ようとしたら)、けっこう、なんとゆうか、精神的にものすごく痛いし重い(はず)です。。。

 

なぜならそこには、気分の上がり下がりや、自分のことばかり気にしているという行為を、暇つぶしにやっている自分、

そこで遊んで実は楽しんでいる(ハートを震わせて楽しんでいる)自分、

自分の気持ちの状態しか目に入らないほど、鏡に映る自分のことしか気にしていない自分

…みたいな自分を、事実認めないと、見ることが出来ないからです。

 

俯瞰して見るというのは(辞書的意味は違うかもですが)、

認めたくないけれど自分はほんとはそんな自分なんだよな?という疑いを自分にかけて、

その疑いを事実だと直視しようとする姿勢がないといけなくなるからです。

 

そんな自分であるはずがないと思いたい葛藤を持ちながら、

それでも自分の本当の姿を直視しようと

自分が自分を疑い、尾行し、偵察し、

自分が自分に対して被疑者確保!!現行犯逮捕!!する!ということと同じだからです。(伝わるかな?)

 

つまり、ものすごい覚悟、が自動的にセットでついてくると思います。

 

そういう鏡張りの世界の中で一人劇をやって一喜一憂している自分を直視するのは、

とても恥ずかしいですし、悶絶しますし、絶望します。

 

わたしの場合、自分への絶望も未だ引きずっていますし、(中略)、未だバリバリ引きずっています。

 

こんな姿見たくなかった(認めたくなかった)って思うからです。

未だにすごく、胸が痛いし重いです。

それをスッキリさせることが目的ではないので、そのまま置いておいています。

 

でも、認めて直視しないことには止めることもできない、

だからこそ、

覚悟を決めて、直視すると決める。

 

止(や)めると決めるよりも、これのがわたしは大きいような気がします。

(直視すると決めてしまえば、あとは止(や)めるのはカンタンな気もします。。。)

 

俯瞰するっていうことは、これらの覚悟や決断が全部くっついてできてはじめてできることじゃないかな、と思っているんですね。

 

Eさんのお返事を見た時に、これはもしかしたら、そういう奥行きというか根っこ?が伝わっていなくて、

単なる方法論(ハウツー)みたいな認識になったかな??とふと、感じたんです。

※違ったらごめんね><

 

(中略)

 

これももしかしたら誤解があるかも、と思ったのですが

気分の上がり下がりは、人間だからあるのはある意味当たり前なんですよね。

 

なので止める(と決める)のは、気分が上がったり下がったりすること自体じゃなくて、

それに囚われて躍起になったりすぐ心のなかで動揺したり、

気分の下がりを元に戻そうと心のなかで騒ぎ立てるというような

”自分のスタンスのほう”だと思っているんですね。

 

それで結局、こうやって書いてみると、

鏡張りの世界でも、ハイ&ローの話でも、

何か自分の設定やらどんなドラマを展開しているか?という話でも、

対処するとき(止(や)めると決める時)に大事な姿勢は全ておんなじだ、

真穂さん、全部同じことしか言ってないわ!!ということが^^;

なんとなく伝わるのではないかと思います。

 

方法は、この際なんでも良いんです。

 

ようは、どんなに嫌と思っていることであっても、

実は自分が好んでそれをやっていた(やっている)という事実と、

そこに必ずくっついてくるであろう、たとえば、

自分のくだらなさ、小ささ、贅沢さ、臆病さ、汚さ、ズルさ、弱さ、傲慢さ、等々を、

どこまで目をそらさずグッと接近して明らかにできるかどうか?

そしてそれを明らかにすることで自動的に発生してしまう(であろう)

恥ずかしさ、いたたまれなさ、絶望、穴があったら入ってしまいたい…

みたいな気持ちを、

ちゃんと逃げずに感じることを引き受けられるかどうか??だと思うんです。

 

これがひとつのことでできたら、人生、もう全部同じです!

ここだけ!!です!

たぶん、大事なことって。

 

なんだか重く聞こえてしまう部分も多々あるかもしれませんが、

だからといってイコール「深刻にならなくてはいけない」ではないんですよね。

深刻さと真剣さは違いますから!

真剣=重い、時間をかける でもないですし!

 

感情が動くからと言って劇的になる必要もなく(ここで酔うと取りこぼしますし!)、淡々とやればいいんだと思うんです。

 

 

なんだかこのコメントは、Eさんとのやり取りを越えて、

すごく大切な、書いておきたいと思ったことで、

なのでブログでもそのまま引用してみました。

 

なぜブログでも書きたいと思ったのかな?と考えてみたら、

わたしのこのブログも、

もし、方法論として見てしまっている人がいたら、

大事なことは何も伝わらないと思ったからだな、と思いました。

 

今は、ブログもそうだし、本もそうだし、

世の中に【方法論(知識・ハウツー)】は山ほど溢れています。

 

でも、コメントにも書いたように、

方法論なんていうのは、なんでもいいと思っているんです。

 

だけど、この【方法論(ハウツー・知識)】で人生や自分が変われるのだと

本気で思っている女性がたくさんいると思うのです。

※Eさんがそうってことじゃないです。

 

”頭(思考)”で受け取れそうな、

上辺だけのところ、

言葉の上澄みだけをすくい上げて、

その上澄みの”コレクター”になってしまっている人が

ほんとうにたくさんいるな、と思うんです。

 

それこそまさに、受け取りこぼしだと思うんです。

 

でも、上辺だけすくい上げて、

ハイ次、ハイ次、、、って

上澄みコレクターになることが

自分の人生を変えてくれると本気で信じている(としか思えない)人も

たくさんいるなって思うんです。

 

 

頭(知識・ハウツー)じゃあ、無いんだよ。

 

 

だからある意味、もう、何も学ばなくてもいいと思うんです。

 

自分が、ほんとうにどんなことをも受け取ろう、とすれば

学びなんて、もう、

石ころくらいに雑草くらいに

もうそこらへんにいくらでもゴロゴロ転がってる。

 

でも、それができないのは、

より好みしているからだと思うんです。

 

自分が創り上げてしまった見たくない自分」を

見ないで済むままで、変われる方法。

 

とか、

 

「自分が放置してきてしまったがゆえに積み重なった感じたくない痛み」を

感じないで済むままで、ラクになれる方法。

 

とか、

 

「自分が歩み寄ろうと努力を怠ってしまったがゆえに、開きに開ききってしまった、大事な人との心の距離が、

勝手に縮んでコミュニケーションが円滑に戻る方法。

 

とか。

 

こういうのを、

見ないままで、

感じないままで、

努力しないままで、

 

なんとかしようとすると、

学びをより好みしようとすることしかできなくなってしまうから。

 

上澄みの奥底の本質までを見ようとしたら、

見たくないことも一緒に向き合わなくてはいけなくなってしまうから。

 

だから、どんなに「かわりたい」って言っていても、

「変わりたくない」んだ。ということ。

 

「変わりたい(ただし見たくないものを見ないで済むままで。感じたくないことを感じないままで済むままで。ずっと避けてきたことをやらないで済むままで。)」

 

ということだと思うんです。

 

なのでもしこのブログを読んでくれるなら、

ハウツーではなく、その奥を感じ取ってもらえたら嬉しいなと思うのです。

 

わたしは、わたし自身と向き合うことで生まれる

すっごく苦しかった!という感情とか、

泣きながら何度もノートに書きました…とかっていう苦労談とか、

 

そういうの見せるのは趣味ではないので、いちいち書かないのですが、

いちいち書いていない、

いちいち見せていないことの”奥”を想像できるようになったら、

 

人ってそのとき、ものすごくいろんなことが受け取れるようになると思います^^

 

ものすごくいろんな、見えなかったことが、見えるようになってくると思います^^

 

わたしもそこから始めたんですよ!

何も語らないジョーさんの、

その奥の生き方や姿勢や、やっていることを見ようとしたり、

想像しようとしたりして、

いかに表面しか捉えていない自分だったかということに、

気づかせてもらったんです。

 

そして、表面しか捉えていないから、

自分が積み重ねてきてしまった痛みさえも伴わせず、

表面だけで捉えられるところで、なんとかしようとしているから、

薄っぺらい人生にしかならなかったんだ、ということにも。

 

ブログも、コミュニティも”文字”ですが、しかし、

”文字”になったものに、とらわれないでほしい。

 

その背景、奥を、見てみようとしたら、

受け取れることがたくさんありますよ、きっと^^

 

今日は、ちょっと、そんな話でした◎

 

では、また明日^^♪