「すみません、ただのオンナに戻ります」。

「ただそのままのわたし=ただのオンナ」に戻って生きる喜びとその日々を綴っています◎

本物の向上心。

ふだんカレンダー関係なく生活しているわたしたち夫婦ですが、

年末ともなるとさすがに空気感の違いを感じ、

今日は大掃除とか、会計書類の整理とかしてみました。

しかし、すぐに嫌になり(わたしが。。。)、

今日はなんにもする気がなくなって、お昼も夜も外にごはんを食べに。。。

 

そうしてふと、

先日の東京ステーションホテルへの再訪をまとめてみて感じていたこと、

【向上心】について、

考えてみたくなってノートにダラダラと思いつくままを書いてみた。

 

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わたしは書き出すとき、特にルールは無く、
頭に思い浮かぶことを、思い浮かぶままに淡々と書いています。。。

 

 

単語をポツポツと書いているだけだけど、

でも、ほんとうに、ここに書いたとおりのことを感じてる。

 

わたしは常日頃、ジョーさんを見ていたり、

あと、最近では伊豆でちょこちょこと出逢う面白い方たちとのご縁の中で、

そしてそして、

先日のホームカミングパーティでウェディングチームのスタッフさんたちに振れてまた改めて思ったこと、

 

彼らはみんな、共通して、ものすごく自分たちを磨いている人たちだな、って思う。

 

たぶんいつも、

もっとより良くなるにはどうしたらいいかな?とか考えていたり、

こんなことをしてみようかな?とか頭に思い描いていたり、

自分が築き上げてきている分野に対しての情報には常にチャキーンとアンテナが張っていて(でも無意識で、とても自然体で。)、

 

逆にそれらと一見、全然関係のないようなことに対しても、

とゆうか庭の草木やすれ違う人や、何かが目や耳に飛び込んでくるだけで、

それとくっつけてまたインスピレーションを受けていたり、

(ただしこれも無意識で、自然体の肩の力抜けた感じで。)

 

そんな感じ。

 

でも、そんな感じなんだけど、共通して、

勉強しています!っていうようなことを、言わない。

 

なんとゆうか、、、

 

いちいち、言わない。

 

いちいち、ひけらかさない。

 

淡々と、淡々と、一人で、黙々、

なんか黙って、気付いたら勝手にやってる。

 

だから会うときは、大体そのおのおのの専門の話はしないし(ひけらかさないからね!)

大体ラフにニコニコと笑っているし、

なんてゆうかガツガツしてない。

勉強してますッッ!!!って固さがない。

柔らかで、ユルユルで、笑顔で、たゆたう感じなのだ。

 

 

そしてあちこち手を出さないというか、たぶん、

学ぶことが目的になってないんだね。

 

大きな樹木の根っこが黙って淡々と水を吸いあげるのは、

そのことによって花を咲かせるためであり、

水を吸い上げるのが趣味なのでも目的なのでも悦びなのでもない。

 

同じように人間も、そこはただの通過点で、

自分というものが自分として花咲くために、

ただ黙々と水を吸い上げるように、吸収していく。

 

きっと、学ぶということが、

ぐんぐん根っこから吸い上げて、自分の一部に自然としてしまうことと、

 

カラーペンキのようにぺちゃっとくっつけて、

色は確かにくっついたけれど、

でも本体自身に溶け込んでその一部となって栄えるわけではない、

 

きっとそんな違いなんだと思う。

 

ノートの写メに書いてある

「不安がある?(スケジュール帳を産めてワクワクしてるような?)」とか、

「そういう自分が好き。なのかなあ?」とか、

「自分の知識が増えたような感じが気持ちイイのかな??」とかは、

ペンキベチャーーの感じの人に感じるわたしなりのイメージを書き連ねてみたものです。笑

 

 

ただ黙って、ぐんぐんと糧にして吸収して、自分の一部に自然と溶け込ませている人と、

ぺちゃってなっているだけの人、

 

その違いって、絶対に伝わるものがあると思う。

 

ペラペラとしゃべらなくても、勝手にすでに、”その人の一部”として、

にじみ出るものがある。

 

そしてそれが、信頼となる。

 

そういうにじみ出る感じが、わたしはたまらなく好きで、尊敬してしまうんですよね。

それがなんの分野であっても、なんとゆうか、

そういう人にはこぞって落ちてしまう。まさに恋に落ちるみたいな感じで。笑

 

だからわたし、昨今の女性の、

セミナーやお茶会のスケジュールがびっしりとか、

習い事あちこちとか、

好奇心と興味の赴くままにあちこちとか、

あたらしい学びに次々あちこちとか、

もしくは、

そこでオトモダチを増やしていくとか、

 

もしくは、

より良い明日を求めよう!とか、

理想がどんどん叶っていく♡とか、

自分の快適さ、心地よさを追求する♡とかが、

 

あまり好きではないんです。(ドーーーーン。)

 

きっと世間では同じとされてる向上心や、学ぶという意欲なのですよね。

そしてむしろ、こっちのが、

すごいちゃんと向上心ある感じはしますよね。

 

黙って淡々と、ただそれが当たり前になっている人は、パッと見、

やってるってほんとうにわからないからね。

そもそも世間の人がそれとみなす”やってる”はむしろやってないかもしれない。

日常の何気ない中で、目の前の仕事で、吸い上げる根っこの力が半端ないから、

それは日常の当たり前の中に隠れてしまい、何も”やって”いるようには見えないのかもしれない。。。

 

それがほんとうに好きな人は良いと思うのだけれど、

わたしは、

なんかめんどっちいなあと、

なんか、一緒にいるだけで疲れそう。。。(いっつも”より良く!””もっと!”っていうエネルギーが。たとえ、不足感から出ないいわゆる”ワクワク”でも。。。)

と、

そういう気持ちもあり、

わたし自身もすっかり、

より良い未来(生活・人生)というのは求めたい気持ちがなくなったのが

大きな変化かなあと思っています◎

それが良い悪いではなく!

 

わたしもかつて、ずーっと、

この広い世界、たくさんのきらめく世界があって、モノがあって、コトがあって、

それに手を伸ばして手に入るのなら、経験できるなら、

そうしなきゃもったいないじゃん!と思っていた。

 

心や目に見えない法則みたいなものを知ってから、より、

ただ自分と向き合ったり、設定を変えるだけで、

たしかに人生がより良い方に変わるのなら、

そうしないに越したことはないだろうとも思っていた。

事実それを体験したのですし、

それに間違いはないのだとは思っている。

 

でもこの発想自体が、

結局はなんらか現象や現実の変化(=特に金銭に変わるもの・関わるもの系)っていう見返りを求めていて、

そのために自分と向き合う、ノートに書く、なら、

 

その発想自体が貧乏発想だなと、最近は思うのです。

 

わたしが、先日のホームカミングパーティから帰宅して、

自分を縛っていた条件付きの世界の枠の外に出たという感覚でもうひとつ感じたのは、

 

もうすでに有って当たり前。っていう前提の感覚。

 

それは、別に偉そうなのでも、感謝していないのでもなく、

何がどうあってももう、有ることしかないのだろうから、

自分で何かどうのこうのする必要は何も無いんだな、っていう

一番の感謝と信頼の気持ちだったんです。

 

ここでのたとえのまま書くならば、

より良い明日を求めようとしなくても、

それのために(それを狙って)自分の気持ちを書き出すとか、

何か心地よいと思うものに触れる機会を増やすとか、断捨離するとか、お金を使ってみるとかしなくても、

そんな「コレ」と、特定して求めてあれやこれや動いてみなくても、
動くことが悪いのじゃなく、その先を狙ってるのがなんとゆうかものすごく貧乏発想だなと感じるということです。。。!

 

勝手にすでにより良い毎日に整えられていっているし、大丈夫しかない。

 

それって、あれと同じだと思うんです。

畑に有る草木が、伸びているということにわたしたちの目で、五感で一日一日、

気づくことができなくても、

見えなくても感じ取れなくても、ちゃんと進んでいる。

そんな感じなんだと思う。

 

わたしが今、「素敵だな」と感じる人達は、

ひけらかさない、淡々と黙ってやる、そういう人たちは、

通称「根っこから水をすくい上げて自分の一部に自然としちゃう人たち」←長いわ

 

何かの見返りを求めて、何かを”変え”ようとして、何か自分の生活を、人生を

”より良く”したくて、

向上心を持って何かを淡々としているわけじゃないんだろうなあと感じるんです。

 

だからこそ、ハイな高揚感はそこに無くて、

地に足がついていて、余裕感がそこに確かにある。

それは常に”有る”前提で、

ただ、自分の気持ちの赴くままに、進んでいるからじゃないかな、と。

 

それってひとつは、”育ち”みたいなものがわたしは大きいんじゃないかと思う。

でも、それが全てじゃなく、

気付いてどうするか?だと思うんですよね。

 

わたしは今も、こうしてノートに、気になることを書いたりして自分を見つめたりするわけなんですけど、それは、

それによって何かがどーのこーのなってほしいというのではないんです。

ただ、「なんでかな?」と、

それを通して自分を知りたいだけ。

 

子育てにたとえるなら、

子供にどうにかなってほしいから話を聞くのじゃなく、

愛していて、ただ知りたいなって思うから、知ろうとしてみる。

それだけ。

 

それが今できるのは、自分に余裕感があるからかな、って思うんですよね。

 

だからこそ、明日が今日よりもより良くなってくれる必要はほんとに特にないなあと思えるし、

そこ、

そこを掴んだままではきっと、

わたしが今、素敵だなっておもう世界を当たり前に生きている人たち、

わたしがやっと馴染んだと、今回、感じることのできるようになった世界やご縁とは、

馴染むようになったと感じる”今”は迎えていなかったと思うんですよね。

 

どっちも良いとこ取りで、というのは、やっぱりない。

 

だって、たとえいられるところが同じだったとしたって、

それでも波長はどうしても、合うことがないから。

 

だからやっぱり、そこに気がつくと、わたしがちょっと合わないなあと思う人達っていうのは、

物質的なところだけで、”パッと見、同じ世界にいるように見える”のであれば

満足なだけなのかな、とも思うのです。

 

ほんとに、その世界にずっと当たり前にいる人達の精神とか、在り方とかに、触れたいとか、近づきたいとか思うのではなくて、

 

同じものを自分も身につけられているという感覚だとか、

同じ場所に自分もいられているという感覚だとか、

そういうものを、得たいだけなのかな、と感じたりします。

 

わたしはやっぱり、そうじゃなくって、

場所や身なりや、使えるお金の額や、関係性がどうのじゃなくって、

その世界で通じ合いたいのです。

なんかわかるなあとか、なんかいいなあとか、なんか好きだなあとか、

その世界の人と、同じように、人と人として、

感じ合いたいんです。

それがどれだけ仲が良い!とか、こんなに交流がある!とか、

そういう回数とか事実とかじゃなくってね^^

 

…向上心の話から随分話が膨らんでしまいましたが、

わたしが好きだなと、そうありたいなと思うという上での本物の向上心って、

そういう感じだなと思っていて、

対に”偽物”があるという意味ではなくってね◎

そうして今、そちらを大事に、ある意味で自分の中にあった、そこに合わないもの(想い・執着みたいなもの)とはさよならをできたこと、

とても誇りに思っているのです。

そしてわたしは、それができた今の自分のほうが、好きだなあと心から思えることが嬉しいです^^

 

 

では今日はそんなところで♪

明日は2017年最後の一日ですね、

心あたたまる一日をお過ごしください♪