JUST WOMEN

「ただ、ありのままのわたし」を生きて、人生が180度変わった軌跡と奇跡を綴ります☆(旧ブログ名:ただのオンナに戻ります)

「自分を大切にする」を、逃げに使ってはいけない☆

「自分を大切にするということを、逃げに使ってはいけない。」

なんか乱暴ですが、今日はこのことについて書きたいと思います。

 
最近感じていること、
結局、自分と本気で向き合うことをしようとしない人間はどこまでも、
どんな縁もどんな情報も
自分の都合よい方向に解釈して、逃げに使うんだなと。

本人が自分が変わりたくないがために
そういう縁とそういう情報だけを
必死こいて探してるんだから当たり前といえば当たり前なのかもしれません。

そのことを今日、再び明らめました。

だから、そういう人に対して怒ってんじゃないんです。
目指す世界が違うのに、そういう人に対して話が通じるわけないのに、
そういう人にどこかでしがみついてた、
そこに視点を定めてた自分に、
震えるくらい怒ってんです。


アホか??と。
おめー何やってんだと。


これが、自分を生きるっていうことですよ。
自分を大切にするってことですよ。
わたし、たぶん所々にそれをお伝えてるんですけど、
どうもそこを綺麗に端折って都合よく捉えてる人がいる気がします。
この際しっかりハッキリ書いておこうと思います。
超キツい内容だと思うので、読みたい人だけ読んで下さいね。


自分を生きる、自分を大切に生きるっていうことは、
今回のわたしのように
自分にとってよろしくない、誤った選択をしたとき、
自分の中の違和感に見ないフリをしたとき、
他人に自分の評価を委ねたとき、

自分で自分を徹底的に怒ることも含むんです。
(もう、怒りなんて言葉じゃ足りないですけどね、罵りレベルですよ。)


一番大切な自分という人間に、
ムダな時間とエネルギーを懸けた自分を簡単に許すことは
「自分を大切にしていない」からです。

自分の命への冒涜だからです。

「自分を大切にする」ということは
そんなアホ過ぎることをやってしまった自分に
ちゃんと絶望することも含むんです。

同じことを、けっして繰り返さないために。

どうもね、わたしホントに
わからない人の気持が全くよくわからないんですけど、

※今回、そういう自分のことも粛々と明らめましたよ…都合良く解釈して逃げ続ける人のことがわたし、ホントにわかんないです、全く!!理解不能!!そしてわかろうとする自分も切り捨てました!!!だってわかれないんだもん。

どうもこの「ちゃんと絶望する」が
スッポリ抜けてるんじゃないかと思うんです。
良いとこ取りってやつなんでしょうか、なんとなく伝わりますか?


たとえばね、

親が自分の子どもを「大切にする」って、

甘やかして褒めたたえて、何をやってもいいねー!!
そのままでいいんだよ!!って言って
子どもが自分の命をキケンにさらすようなこと、
自分の命を無碍に扱うようなことをしても、
本気で怒ることのできない
本気で変えようとしない親だったら、

それって子どもを本当に大切にしてるって言えますか。


それって優しくしてるつもりでも本当は
自分が嫌な想いをすることから逃げて、
いつも一時しのぎで、いつも真剣ではなくて、
親という立場とその責任から、その子の人生から、
逃げてるだけじゃないですか。

本当に大切だったら、
自分の大切な子どもがバカなこと繰り返してたら、
自分に尊厳のないことをしていたら、

ひっぱたいてでも、罵声を浴びせてでも、引きずってでも、
親である自分がどんなに嫌なツライ想いをしてでも、

目を覚まさせようとするんじゃないですか。

「バカやろう!!!何やってんだ!!!!」って
泣きながらでも必死に言うんじゃないですか。

 

この「親」と「子ども」のところどっちも、
「自分」に置き換えてみてください、ってことです。

わかりますか??

そこまでやってこその「自分を大切にする」ですよ。

この親と子どもの例でよくわかると思うのですが、
逃げてるのは結局、全く自分を大切にしておらんのですよ。


自分を責めて落ち込んで、
それを見かねて優しい言葉をかけてくれる人の言葉に元気をもらって
また落ち込んで…っていう
そういう一喜一憂を繰り返してるのは、
全然自分を大切にしてないのですよ。


このあたりをグルグルしてる人はたぶん、
絶望が足りないんだと思います。
絶望しきってないんだと思います。

ホントーーーーーに、
どうしようもない自分に。
アホなくらいに自分を生きてない自分に。
他人や社会の評価ナシではそもそも、「自分がない」状態の自分に。


絶望したフリなんだと思います。
とことん自分をいじめたり、状況を分析しただけのやつは
自分を直視してるとは言いませんから!!

それで、アホとか自分がないとかっていうのは
「今」ね。「なう」ね。
命としてはアホでもバカでもどこまでも嫌なやつでもなんであっても、
皆平等だし、価値があります。

でも自分が嫌で、好きになれなくて、
生きづらくて何かしこりが残ってるなら
それは自分にとって変化させていきたいのでしょう??

だからこそ、
「今はホントにこんなどうしようもないわたしだけど
これからはどうしたい??」

というのを真剣に自分に投げかけて進んでいくことで
心が、現実が、周囲が、必ず変わっていくんだよ!!ということだけ言ってると思います。


ちなみにこれは自己否定からの不足感を埋めるために求める「変化」とは
全然違います。
その現在地(=今の自分)をちゃんと見てなかったら、
見つめる覚悟がなかったら、結局何も変わらないのですよ。
そして本当に自分を直視して絶望しきっていたら、
変われない自分をそんなに何度も繰り返すことに
耐えられるはずがない!!!

本当に自分を直視して絶望しきったら、
変わりたい!!なんて泣きごと言ってるヒマないですよ。
やべえ、って思いますよ。

わたし、ホントにやべえ。
ホントに、終わってる。
このままじゃいられない!!!

って、それこそ死ぬ気で変わろうと、
そうなろうと思わなくても勝手に死ぬ気で無我夢中で情報取りにいったり
人に会いに行ったり自分でとにかく行動し始めたり、ならずにはいられないように思います。

そういえばわたし、
前回の記事でのんちゃん&アレク夫妻に会ったことの意味がわかった!!
とか書いたじゃないですか。
自分で書いてて、思わず笑ってしまって。
本当にわたしの頭の中、お花畑だなあと。
よくもまあ、
なんでもかんでもこんなに自分の都合の良い方に捉えられるなあ、と^^;


でもそれって、いつも本当に必要なときに
自分に絶望しきってるからですよ。


いつも本気で自分を直視して絶望しきってるから、
自分で自分の正解をいつも持てるんです。

誰がなんと言ったって、自分としてはこうなのだという道を
自分自身で創っていける覚悟が持てるんです。


今も何度も、違和感があるたびにその繰り返しですけど、
自分の世界を自分で創っていくことはそれらの勇気を差し引いても有り余るほど
そんなにも楽しいのです。

 

そして話戻りますが、なぜ現在地を見れないのか??


それは外側に答えを求めてるからだと思うのです。

なんなら社会がどんどん、
顔も知らないで簡単につながれるようになっていて、
リスクがない分、優しくもなってきてますからね。
優しさって、リスクなんですよ??

そういう風に優しさを与えてくれる人が、
あなたの人生保証してくれるんでしょうか?
一生支え続けてくれるんでしょうか?
どこまでもそんなあなたに付き合って、

サポートし続けてもらえるんでしょうか??

…親だって無理なんじゃないかなあ、と思います。

優しい言葉をかける人は、自分が優しくされたいからかもしれない。
「優しくしなきゃいけない可哀想な人がいる」世界に住んでるから。

そして本当に面と向かって優しくありつづけるのは
面と向かってキツいことを言い続けるのと同じくらい勇気のいること(=リスク)です。
そうであるならば本物の優しさかもしれないけれど、
どちらにしても、外側に満たされることを求めつづけてるなら
そういう自分とそういう自分の創りだした現実をちゃんと直視して、
本気で絶望したらいいと思う!!
(本人がホントに変わりたいならね!!)

わたしが「本気で絶望しろ!!!」って言ってるのはいじわるじゃなくて、
その絶望の先に本物の希望があるからなんです。


自分で自分を愛する、幸せにする、その方向に歩んでいくっていう、
ゼッタイ誰にも壊せない本物の希望。

もし自分が嫌なら、変わりたいなら、幸せになりたいなら、愛されたいなら

本気でそれを自分で構築しろよと言ってるの!!!

そこに本気になれよと言ってるの!!!

そのためにちゃんと今の自分を直視しろ!!と言ってるの!!!!
(直視したら漏れ無く絶望がついてくるけどさ。)

 

それをする気がないなら、
あなたの依存的な生き方に、
「自分を大切に生きる」を都合よく解釈して
今のままの自分でいいという安心材料と言い訳に使わないでください。

 
だって、こちとら真剣なんです。
なめんなよ!!!って思うわ!!!
ホント、怒りプンプンですよ!!!!

 

でもこれ全部、わたしもわたしに妥協して、
嫌われることを恐れてこの世界にいたっていうことの証なのですが。
だから自分に本気で怒っているし、絶望もするし
その上で、「もうそういう世界はいらない」と決めるということ。
だから全部、他人を通して「わたし」に言ってることでもあります。

この前の、お世話になった方への違和感の話もそうですし、
「自分を大切にする」の中の、切り捨てと排除のステージが今、
わたしにとっては色濃い時期なのではないかと思います。

ちなみに切り捨てと排除って、人(相手)を切り捨てることではないですよ。

何度も説明しつこいですけど、
目指す世界が違うのに自分が手放すのが怖くてしがみついていた世界とそこに住む人のことを
リリースするってことです。
何も持たずに進む勇気を持つってことです。


だから、こうしてエラソーにブログで言っちゃったからには、
そこをわたしももっとちゃんとやってこうと思います。
その先でどういう世界が展開されるの
やっぱり見たい・体験したいと思うから。


そういえば今日から4月ですね!
新しいスタートの日に「絶望」連発の記事を失礼しました。。。笑
それでもお目通しいただいたことに、感謝を込めて!
皆さま良い週末をお過ごしください。
サタンサタンこと、サンタサンタ。

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